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捨て猫ふて寝ころころり

どうもひねくれ者の僕は、はぐれたがる節がある。

遊園地だったり、水族館であったり、はたまた何人かでの帰り道であったり。わざと一番後ろにまわり、少しずつ距離を置き、わざと後ろなんか向き、はぐれようとする。一人が好きなんだろうという自己分析は出来ていて、それはふと“気を遣う”瞬間から逃げようとするからなんだと思っている。

にしても、はぐれようとするとは迷惑な行為だなとは思う。仲間たちは少なからず心配してしまうではないか。
とも思ったが、僕らはもういい大人だ。小学校の遠足ではない。連絡を取ろうと思えばポケットには無限の可能性を持った万能通信機器がある。無意識にそういった考えもあってはぐれようとしてしまうのかもしれない。

つらつらと“はぐれる”ということについて書いていく中で気づいたが、
僕は「最初から一人」よりも「途中ではぐれる」ということに美学を感じているみたいだ。美学といってしまうとなんだかナルシストみたいで気持ち悪いが、きっとそうだ。

何が違うのか。

それは「協調性」と「イタズラ心」だ。

オオカミのように孤高であることにも憧れを持つが、それと同じくらいに他人との関わり・感じ方を意識して生活してきた。そうすると、始めは団体のことが多い。「なんだあいつ付き合い悪いな」みたいに思われる状況はあんまり好ましく感じない。なんとも現代的な弱さを感じてしまうが、そうなのだ。でも誰かといる瞬間だって楽しい時はある。そこにかけがえのない刹那を感じてきたことは少なくない。だから僕は、人といたいと思う。

じゃあ何で“はぐれたい”のか。

それは、最初にも書いた“一人でいたい”をふと優先したくなるということの他に、「イタズラ心」がある。
自慢じゃないが僕はあまり精神年齢が高くない。しかもそれは無邪気な精神を持っているという素敵な幼さではなく、ひねくれた、可愛げのないほうの幼稚さだ。これも最初の方で書いたが、はぐれてしまった場合、誰かが困ってしまう。この状況が、なんだか自分の胸をくすぐる。“悪いことしている感”というのか“すごいことしている感”というのか。自分のことながら本当にどうしようもないと思う。でも、直す必要性はあまり感じていない。「いい人」の印象を持たれることが多いことへの反発なのだろうか。悪いことしたいガキなのだ。とはいっても、ちゃんとはぐれたらすぐに連絡は入れるようにしている。

本当にちょっと一人になりたいだけなのだ。

そして、またみんなに会いに行くのだ。

本当にどうしようもないガキである。



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