最近、「全然、軽やかになれない分野」に気づいた話し

こんにちは、こんばんは。
日々を心軽やかに生きる人を増やしたい、三間です。

「軽やかに生きる人を増やす」そんな言葉が降りてきたので、勢い勇んで使ってみて、使い慣れてくるのを試してみる今日この頃です。

とはいえ、こうやって何か言葉を掲げると、
「果たして自分は軽やかに生きているのだろうか?」と
自身に自問自答するもの。

そうすると出てくるんですよね。
「全然、心軽やかになれない分野」っていうのが浮上してくる。

不思議なものです。
質問を持つと、自分で「問い」を持つと、ちゃんと現れてくる。答えとなる事象を脳は発見してくるようです。

この発見、何というか、結構、ここ数年のうちではかなりの衝撃波がありまして(笑)、ちょっとどう言語化しようか困っています。

でも、なんか吐き出すタイミングなんだろうな、と思って書いてみる。

モヤモヤ、って一生あります。

それは、ざっくりと顕在意識10%、潜在意識90%と呼ばれるので、日頃、認知して自覚する意識など、ほんの一部であり、言葉にしきれない感覚的なものがその大半を占めているわけなので、当然です。

モヤモヤ・・・怒りなのか焦りなのか悲しみなのか得体の知れない感情ってやつ。

そりゃ、17年前にパニック障害になった時ほどに、そのモヤモヤ度の深刻さはなく、思考はネガティブでもなく重たくもなく、今の私は、基本的には毎日を心穏やかに平和に暮らしています。それはそれは、2005年当時の、22歳だった私が今の私を見たら、目を丸くして驚くくらい、明るく軽く穏やかな日常です。

それでも、日々の中で言語化されないモヤモヤが溜まってくると、それは何かを癒し手放す時なのだと、静かに私は、感情を客観視します。

「怖いなぁ」

っていう感情が、横たわっているのが見えました。

「ああ、私、すごく、怖いんだなぁ。」
「傷つくのが怖いんだなぁ。」

何が怖いの?
それをより詳細に見ます。

「人を信頼するのが怖い」

と出てきます。

「人は信頼すると、裏切る」
「人を心から信頼したりなんかしたら、絶対ダメ」

という頑なな信念を私が隠し持っているのが見えます。

いやぁ、これも、だいぶ前に癒して完了したはずなのに、まだ出てくるんですね、と驚きと共に、忘れていた記憶がバァ〜!と出てきたんですね。結構ある、閉まっていた人生エピソードは、全て、「人を心から信頼したらダメ」っていうことを決定づけるものばかり笑。

「ほら、やっぱり」「人は信頼したらダメなんだよ」「だから言ったじゃん」と証拠集めをしてきた自分を発見して驚愕。

そして、さらには、その都度、超強固に握りしめていた自分の心の奥底の感情に気づいたのです。

「絶対に許さない・・・」

そうやって、事あるエピソードで、許せない誰かを徹底的に心の一点で、とてつもなく鋭敏な刃で、許さないことを誓っていて、その誓いこそが私であり、私がこの命ある限り、死んでも許さない、私を傷つけたことを後悔させてやるんだ、と言わんばかりに、ものすごいエネルギーを掛けて、徹底的に捻り潰さんばかりに、こてんぱんに、ぐうの音も出ないほどに、再起不能なほどに叩きのめさんばかりに、自身の芯の芯の更なる中心地で、過去にいた数々の「許せない人」を指し尽くしている自分を発見したのです。

心の中にいた、8歳?18歳?25歳?それぞれの年齢の時の私がいて、その「リトルみま」が、今現在も悔しくて悔しくて怒り狂っていて、そしてその怒りは大抵の場合、「理不尽さ」に対して怒っていて、怒りの裏には、「どうしてこんな仕打ちを受けなければならないの。あなたのこと、大好きだったのに。どうして、どうして。。」と哀しさに打ちひしがれる、「リトルみま」。それはまさに、木に藁人形を釘で打ち付けるが如く、必死に自身の無念さを訴え続けていたのです。

これも、依然に完了したと思っていたこと。でも、完了って、癒しって、ずっとし続けるものだったわ、そうだったわ、と、

「私はとうの昔に、癒しは完了しておりますのよ」

と、傲慢な態度をとっていたことを反省した。

私の中には、まだ50ぐらいの怒りと悲しみが潜んでいて、癒したと思った怒りと悲しみは、確かに以前は100ぐらいあったものを半分に減らしてはいたが、まだ、そこに50も存在していた。

そのぐらい、私はとてつもなく、悔しかったんだなぁ。

藁人形を釘で刺すぐらいに、一点にとんでもない集中力とエネルギーを込めて、「許さない」ということを握りしめていた自分を、今回、新たに発見して、本当に驚愕。

でも、発見すると、未来の選択肢が広がる。

そのまま、「許さない」ということに対してエネルギーを注ぎ続けるのか?それとも、そこ注がれていたエネルギーを、未来を輝かせるための、自分を軽やかに生かすためのエネルギーに変換するのかどうか、を。

思い出せば、やっぱり、事象となった出来事自体は、今でもムカついてしまうし笑、なんで、あいつ、あんなことしたんだろ、っていう、恨み節も出てくる。

それでも、逆恨みか如く、このまま一生恨み続けていく人生なんて、とんでもなく重たくて、そんな人生、まっぴらごめんだ。

そんなしょうもない奴のために、無自覚のうちに、自分のエネルギーを奪われてきていたということ自体が、恥ずかしいし、カッコ悪い。はぁ、何だよ、自分がしょうもない奴じゃんかよ。

この「絶対に許さない」っていうことに、めっちゃエネルギーかけてた分、本来注ぎうる、未来の建設的なことへエネルギーが裂けていなかったなんて、何という馬鹿馬鹿しさなのか。

藁人形を木に釘で打ちかけている「リトルみま」に、ちょっと話しかけてみる。

傷ついたんだよね。心を預けた人に、そんなことされたら、そりゃ、傷つくよね。そうだよね。悲しかったよね。悔しかったよね。辛かったよね。どうして、って理由が知りたくなるよね。

「リトルみま」は、わんわん泣いて、泣いて、泣いた。

自分が受けた仕打ちの「理由が全くわからない」ことに、「許さない」って下していたことも、「リトルみま」が言っている。

それは確かに、相手が何を考えてそうしたのかは、本当のところはわからない。でも、きっと、それは、もしかしたら、「嫉妬」かもしれないね。本人も処理しきれなかった、「嫉妬」からくる「悔しさ」で、そんなことをしたのかも、しれないよね。

相手が「陥れよう」まで思っていたかどうか、わからないけど、あなたに対して、どう振舞っていいか、わからなかったのかもしれないね。納得できるかどうかは、わからないけれど・・・。

それを聴きながら、泣き喚いて泣き疲れて少し冷静になった「リトルみま」は、ちょっとだけ、相手の立場に立ってみる。それと、自分が「絶対に許さない」と、藁人形と釘を手に持って生きていることの影響に思いを馳せてみた。

はっ、とする。

「絶対に許さない」というエネルギーが、「攻撃性」のエネルギーが、自分の周りに漂ってしまっていることを自覚した。

どうしても、攻撃的になってしまう局面があるのはわかっていた。それは、人生史に置いての、たったわずか数人に対してのみだったはずだが、どうしても、それを握りしめて生きていれば、それが一つの「前提」や「背景」としてこびりついてしまうものだ。

この攻撃の刃が、本当に許したくない過去の誰かではなく、全く無関係の人をもまた、無自覚のうちに恐れさせ傷つけていたとしたら?

「リトルみま」は、自分が手にしていた、藁人形と釘をマジマジと見て、蒼白になった。

「許さない」と負のエネルギーを向けていたその人が、自分に対してしてきたことを許せないばかりに、同じことを繰り返してしまっていた。私が浴びてきた負のエネルギーを、同じ負のエネルギーかそれ以上で、相手に返してやろうとすることに必死で、負の連鎖が続いてしまっていた。

愕然として、「リトルみま」は、ようやく、藁人形と釘を手放した。




こうして、軽やかに生きる旅は、一生続くのであった。でも確かに、本来の自分に、傷つく体験の前の自分に、生まれたままの自分に還っていくのであた。

終わり。

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