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室内で密かに後ろめたく女装をしている人にこそ読んで欲しい女装のお話②

こんにちは。
ひめゆりゆなです。

前回記事をお読みくださった皆様、ありがとうございます。
反応を頂けていると記事を書く時のやる気にも繋がって嬉しいですね。

今回は前回の予告通り、私が出身地の京都で女装することと付き合っていき、外に出るまでのお話をさせて頂きます。

初めに確認させて頂きたいことが、本記事では私の過去のお話を余り隠さずに表現するために
生々しくも内容の中には読者様によってはお気を悪くする表現もあります。
特に、女性は読み進める中で抵抗感のお有りの方もいらっしゃるかもしれません。
そのつもりで本記事を読み進めてください。


それでははじめます。

私は、1993年に京都府京都市伏見区で生まれました。
工業系の自営業、2代目の社長を勤める父親と、その会社の事務を勤める母親との間に生まれました。

兄が2人おり、その兄弟の3人目の末の子です。
厳格で体育会系、頑固な父親と落ち着いた性格の母親で、亭主関白な家庭でした。
父方の祖父母が一緒に暮らしていましたが、祖父は肺がんが原因で私が5歳になる頃には他界しており
共働きな両親なので、父方の祖母
それから母方の祖母に面倒を見てもらうことが多くはありましたが
ひとり遊びが多く、そこまで交友を求めるような性格ではありませんでした。

私が初めて女装を意識したのは僅か3歳の頃。
母親と、母親の友人の女性、その娘の子でプールに行った時に私は母親からワンピースタイプの男児用を着用させてもらいました。
その時には保育園にもう通っていてどろんこ遊びなどで男児用と女児用の水着の違いを形で見て覚えていた私は
その時の水着を女児用だと勘違いしていたのだけど、それが合っている気がしていてスゴく嬉しかった。
別に、その前から男児用の服に違和感があったわけでは決してなくて、だけどもこっちのほうがいい!
と思ったのでした。


セーラームーンやキューティハニーが好きで見たかったのだけど
そもそも父親はアニメを見ると脳が溶けるという理論の持ち主だったのもあってアニメ自体を見ることもそこまで出来なかったんです。
なので、父親がいない時にやっているポケモンは時々見れた。
けれど、母親はいるから女の子向けのアニメは見せてもらえなかった。母親から男の子向けのアニメを勧められたりもしてたんです。
その後もおジャ魔女どれみやシュガシュガルーン、ふたりはプリキュアなど同年代の女性が懐かしむようなアニメにもリアルタイムで興味は持っていたんですが……


母親は安上がりになるから、なるべく2人の兄のお下がりのおもちゃを使って欲しかったとは思います。
けれども私が欲しがったのはおままごとの道具で
中身が出ないお醤油とか、切れない包丁とか、台所なんかをおねだりしてたんです。
あとから聞けば母親も男2人はもう産まれたから、もう1人は女の子だといいな、とは思っていたと聞きました。
それもあっておままごとをしている私を見るのはそこまで嫌ではなかったんじゃないかなと思い返します。

そうそう。
今思い出したら、近所の女の子の家に遊びに行った時に、どっちがお母さん役をやるかでもめたことがありました笑


買い物をしに近くの大型スーパーに連れて行って貰った時には目を盗んで婦人服売り場のランジェリーコーナーに行きました。
そこで2つ柱の幅広なハンガーラックにランジェリーが陳列されていて
その柱と柱の間をよちよち歩きで潜ると色とりどりのランジェリーや、女性の体型をより演出するためのフリルやレースなどの仕様が見られて一つ一つゆっくりと眺めては潜り、眺めては潜り。
女性の象徴としてランジェリーを見ていて、実際のランジェリーの形を見てより憧れを強めていました。


両親が留守にすることは珍しくなく、その時間に1人を確認すれば母親の下着を着てみたりして…
けれども、実際に母親からは「あっくん(私の本名から取った愛称)それはちゃうんやで。」と何度も注意を受けていたこともあって
望まれてもいなければ、当時の常識的にはしてはいけないことだとは分かっていました。
別にその禁止から来る背徳感に興奮はなく
ただただ自分のしたいことが禁じられたことである心の落ち込みを感じました。


6歳の頃に、辛い思いをしたことがあります。
その時は両親が2人の兄が通う少年野球の観戦に行っており、土曜日だか日曜日だかの良い天気。
当時住んでいたのは3階建ての一軒家で
1階に車庫
2階に祖母の住む和室とキッチンやクローゼット、お風呂
3階に両親の住む寝室、リビング、子ども部屋がありました。

1階の車庫の手前に重厚な金属製のダイヤルロック式の扉があり、開けると螺旋階段が続く作りです。
螺旋階段の下スペースにはかつて犬が住んでいる犬小屋の代わりになるスペースがあります。

3階で暇にする私を遊びに誘いに、近くのアパートに住む小学5年生のマサキが遊びに来ました。
マサキは太っていてゲームオタクな気質のインドア派。大食漢のようで、体型に合った大きな口とパンパンに膨れた顔に埋もれた小さな目が特徴的です。
彼が町内の子どもと馴染めていなかったのは私と近いものがあったかもしれませんね。
私は暇なのに断る必要もなく、私は1階扉を開けて1階でマサキを迎えました。
マサキはお菓子を持ってきてくれていて、フーセンガムで風船を作れない私に風船の作り方を教えてくれにきたようです。
犬小屋のスペースの隅に隠れていると、物音さえ立てなければパッとは人が隠れているとは気付かないくらいには奥行きがあって
これが洞窟に隠れているみたいな気持ちを盛り上げて子ども心をくすぐりました。

優しく風船の作り方を教えてくれるマサキのおかげで、なんども、なんども挑戦してようやく風船を作れました!
達成感と一緒にいい加減に顎が疲れてきてしまっていた私はフーセンガムを紙にくるんで吐き捨てて…
ビニール袋に放ったところでマサキの雰囲気がおかしくなりました。

急に私を地面に押さえつけて、片手で起き上がれないように上から圧力をかけながら…

キスをされました。

いきなりの事で私は必死に抵抗をしますが、マサキは太っている上に5歳年上。
力で勝てるはずがありません。
マサキはもう片手で器用にズボンとパンツをずり下ろし
私の理解で言う「おしっこを出すところ」を私の口に目掛けて近づけてきました。
鼻息が荒く、興奮状態のマサキと、態度の急変に泣きそうですらある私………
不衛生な部位である事は少なくともわかっているし、母親としかしたことのないキスを同性のマサキにされて、その上汚いものを口に突っ込まれて………
とにかく泣き叫んで助けを呼ぶしかありませんでした。
そこで
「何してるんや!」
そう言って急いで外からダイヤルロックを解いて扉を開けてくれたのは祖母でした。
そのロック解くまでの間にマサキは大急ぎでズボンをあげて、私の姿勢を起こして「あ、おかえりなさい。」
とにこやかに祖母を迎えましたが、泣き止まない私を見て祖母はマサキを追い出してくれたのでした。

その2年後にもマサキは私をマサキの家に誘い、私の持っていないゲームのボンバーマンをやらせてくれる
という誘い文句に私はノコノコつられてついて行き
3回勝負で負けた方が言うことを聞く
というルールで勝負をして当然全敗。
同じように襲われて、また股間部を口に突っ込まれて…そのあと僅か10秒後程に
今度はマサキのお母さんの帰宅に助けられたのでした。

余談ではありますが、私が高校生となった時に通学路の途中にある交番を自転車で通った際
あのマサキが警官の制服着て、変わらない、あの大きな口でニチャァ…とニヤけてこちらに敬礼してきたことは忘れられません。
未成年であろうとも性犯罪者のような男の彼が警察官…
世の中に矛盾と混乱を感じた瞬間でした。


そんなことがあったのに、自分がナヨナヨして弱いからこんな目に遭うんだ…
とは決して思わなかったんです。
けれども父親は全く違って
強靭な肉体にこそ、強靭な精神が宿る
という考えのにんげんであることもあり私をゲームで釣って少年野球に入れさせました。
父は私たち子供を坊主刈りにすることがとても好きで
これは犬の飼い主が犬の毛の色を染めたり、面白い形にトリミングするのとよく似ていると思います。
案の定、私も坊主刈りにされて周りの女の子の長い髪に憧れていた私は真逆の髪型に幾度と涙を流していました。
かと言って野球をやめれば買ってもらったゲームは売られてしまいます。
やめるわけでもなく、やりたいわけでもない、酷く後ろ向きなスポーツの始め方をして
結局私は小学校卒業まで野球をやります。


家はその途中に1度引っ越しており、2階建の一軒家に2階が丸ごと子供部屋、それも女装なんてするのに好都合に今まで相部屋だったのを個室をくれたのです。
そんな新居も慣れてきたある日、1階にあるトイレで小学校終わりに用を足していると
普段は隠されているはずの生理用品のナプキンが出されていました。
きっと母親が急いで出してしまい忘れたのでしょう。
テレビCMだとか、そのナプキンの包装の絵から、それが女性が何かのために使うものだと判ってまた憧れを持っていました。
そのナプキンを1枚取って、とにかく使ってみたかったんです。
また母親の下着を盗み、下着に包装の真似をしてナプキンをつけて
当然出るものなんておしっこくらいしかないので、少しおしっこをして……
さて、使い終わったけれども!
これを捨てる方法に困りました。
ゴミ箱に捨てると持ち主の母親にバレる。
かといって捨てる方法も困る。
そう悩んで結局私は自室の勉強机の一番小さな引き出しにスッポリとナプキンを収めたのです。

翌日、2人の兄が急に怒鳴って私の部屋に入ってきました。
男兄弟にはプライバシーという概念はありません。
むしろ、兄達には当時プライバシーの蹂躙をすることが高圧的な父親に対するストレスの吐き出し口だったと思い出します。
「レゴの騎士の乗る馬に着せる鎧があらへん!」
そういって、全くもって身に覚えもないものを出せ出せと言われて戸惑うしかできませんでした。
たしかに、当時私はレゴブロックが大好きで
お城を組み立てることへの達成感や一人暮らしを仮想して行うことへの憧れをここに詰め込んだ気もします。
けれども本当にそんなパーツを知らないのに、出しようもありません。
2人の兄は、渡したくなくてとぼけれいると勘違いして凄んで攻め口を立てて
私を殴打して部屋の中を捜索し始めました。
当時の私が10歳
次男は13歳
長男に至っては16歳!
レゴブロックを使っての人形遊びをしたいのならば流石に稚拙だし
その稚拙な理由で6つ離れた兄が一方的に暴力を振るうことに理不尽が溢れて涙になるばかりです。
身体を起こせばまた殴られることは経験でわかっていたけど
私には部屋をまさぐられたくない理由があり
けれども抵抗すれば尚更、兄は疑って理不尽を振り回すのに決まっている。
そうして遂に、2人の兄はナプキンを見つけてしまいました…
「……なんやこれ?……」
一瞬場が凍り、そして次のオモチャになると気づいた2人は嘲笑して
ナプキンを持っている理由を聞いてきます。
もうレゴブロックなんてどうでもよくて
今は力で抑圧する父の鬱憤晴らしの楽しいオモチャの遊び時。

もう、私には泣くことしか出来なくて、言い訳なんてする余裕もなくて、今すぐ死にたいくらいでした。

時間は夜中で、3人も子供がわめけば母親も駆けつけてきました。
あぁ、1番見つかりたくない人が来る……
その母親もナプキンを見て
目に見えるくらいに大きく驚いて
また数秒固まって…
「これはお母さんがココにしまったんや!もう遅いんやから早よ寝なさい!」
そう言って母親は庇ってましたが、その日は泣き止めずやっぱり自分の願望が許されないことの再確認をしただけでした。


少年野球を終えてからは私は髪を伸ばし放題。
悠々自適にゲームをしていたら
おしっこがしたくなったので1階に1つしかないトイレに行くことにしました。
トイレまでは
階段を降りて
リビングを渡って
扉を開けて廊下に出て
またトイレの扉をあければ到着します。
それで、リビングにつながる扉を開けたところで
気の短い長男が寝転んでいたんです。
それも、全裸になっていて
股間部をゆっくりを擦っている……
私は長男が何をしているのか全くわからなくて
ただ異様な様子ではあるけれども、これを見たら短気な兄はまた怒り狂って暴力を振るうに決まっています。
必死に兄の反対方向を向きながら、ゆっくりゆっくりと廊下までの扉に向かいます。
時々、どうしても兄の様子を確認してしまうのですが、兄はというとむしろニヤけ顔で変わらずゆっくりと股間部を擦っていました。
廊下に続く扉のドアノブを掴んだ瞬間に
「オイ」
私は縮み上がりました。
長男は某ラグビーの名門校で鍛え上げられた戦士のような体つきです。
私が細腕で敵うはずがない。
半ば逃げ出す姿勢をしながら返事をしたところで
ーーーー!!

「舐めろ」

余りにも恐ろしいマサキからの恐怖体験が蘇り、私は反射的にトイレに向かって逃げ出しました。
長男は揚々と起き上がって追いかけ、間一髪で木製のトイレの扉を閉めたところに
バキバキ!!
と破壊音をたてて扉に穴を空けて
けれどもその手は扉の壊しきれなかった1枚板に隔たれて私に触れることなく
兄は扉にへばりつきました。
扉の鍵は非常に簡素で、外からでも1円玉があれば鍵穴をねじって入れてしまいます。
私はそれを知っていて、鍵をずっと抑えつけたまま、野獣のように荒ぶった兄が他に興ざめが起きるのを震えて待ちました。
そうして30分ほどして母親の足音が聞こえるまで
私はトイレから出られませんでした。


時は過ぎ、中学生になりました。
私には少しは好意を寄せてくれる同級生もいて
そういう異性の目はくすぐったくも甘いトキメキを運んでくれるものでもあったので嬉しいものでした。
なによりも、そういう異性の好意は
マサキや長男がやった性的な暴行の記憶を遠ざけてくれます。
だけどもやっぱり女装をしたい気持ちは変わりませんでした。
その時に仲の良かった友達と色気付いて行ったのは
京都で一番の繁華街、四条河原町。
中学2年の私たちは京阪線の電車代もケチって自転車で四条駅横まで走り
その時新しく出来た黄色い看板のLOFTに向かいます。
かと言って行っただけで何か欲しいわけでもなく、ぐるりと回ればもう一行は外に出てしまいます。
実は、私はこの時のために月の3000円の小遣いを4ヶ月分貯めてきていたのです。
当のお目当てはコスプレコーナーにあったゴスロリ衣装です。
こんなもの、友達の前では当然買えるはずがないので
「あ、欲しいもん買い忘れたわ。先行っといて」
だとかとぼけてドキドキしながらカゴにゴスロリ衣装を入れ
カモフラージュに5000円もしたバナナの人形もカゴに入れました。
お会計をして、友人にもバナナの人形に押しつぶして衣装を隠し

ようやく手に入れた自分の衣装を
フフフッ💓
とか言いながらフリフリ振って
着て楽しみました。
考えればこの時着ただけ女装だったんですね笑
でも、やっぱり私は昔から間抜けなのです。
当時、私はベッドと壁の隙間に衣装を隠したのですが
退屈な日常に刺激を求めて勝手に私の部屋を入ってくる次兄にゴスロリ衣装を見つられてしまったのです。

次兄は新作の三國無双を買ってプレイした時よりも喜んで
「あぁ~れぇ~~?こ、れ、なぁぁぁにぃぃぃ???変態さぁぁん?変態ッィョ!変態!ヘンタイ!…(肩パン)へぇぇえんたぁぁあああいぃぃぃぃさぁぁぁんんんん!!!」
とひたすら叫んで私で遊びました。
不幸中の幸いは、長男が静岡の大学に進学してキャンパスライフを過ごしていたこと。
次男は共有する相手もいなくてスグに飽きてしまいましたが
その時は恥辱と肩パンの痛みがジンジンと滲む思いでした。……


私は高校1年生になり、インターネットの発達と共に悪知恵をつけてきました。

女装 掲示板

だとかiモードで検索をすれば、中年の私と同じような着ただけの女装さんがピースサインで陰部やモリモリに盛った胸を主張してポーズを取って写真を上げたりしていて
それに対して女装していないおじさん達が喜んで性的要求をしたり、褒めちぎったりしていたんです。
「え?この中で褒めてもらうの余裕じゃね?」
そう思って私はセルフタイマーがついた最新の携帯で自撮りをして投稿しました。
そうすれば案の定のほめちぎり。
もちろん嬉しくはあるし、この秘めた趣向を認めて貰えた喜びはありました。
けれどもやっぱりこのおじさん達の性的要求には応じきれなくて
私は時々はこの掲示板を訪れました。


高校1年の冬
家庭科の授業はとてもつまらなくて生徒の私たちは暇の潰し方を探してトランプゲームをしたりしていたのですが
その中の女子が
「あっくん、女装似合うんちゃうん?やってみようや~♪」
そういうので
ドキン!
と驚きはしましたが、彼女たちが私の女装趣味を知るはずもなく
私は教えて欲しかったお化粧をしてもらいました。
この時、何よりもアイシャドウを付けてくれたのは当時の好きな女子でした!
あぁ~女性にお化粧をして貰えるのって夢心地ですよね。
仕上がりは、良かったんです!
けれどもそれでもっともっと女装がしたくなって
その日の学校帰りにはスグに大型スーパーに行って
「お姉ちゃん言われました。よく分からないから必要な化粧品ください。」
と言って美容部員のおばさんから4000円分も化粧品を買った覚えがあります。
当時の月のお小遣いは5000円、しかも両親はバイトを禁止していたからキツかった…。
だけど必要な物さえ分かればあとは使い方の慣らしに100円均一でお化粧品を買い足していきました。

お化粧をして、自分の顔が女性性を持つことが嬉しくて…
だけど当然それで外を出ることは出来なかったので
ちょっと顔の仕上がりを楽しんだらお化粧落としを使ってから洗面台で顔を洗いました。
幸い、バスケットボール部だった私は汗っかきで家族から見て頻繁に顔を洗っていたとして
そんなに違和感はなかったんです。


当時はgleeやモバゲータウン、mixiなどなど、2つ折り携帯の中でもSNSサイトのブームは最高潮!
その特徴は、どのサイトでもグループやコミュニティ等の共通の趣味の人達が集まれるチャットがあったことでした。
私は女装はもちろん、異性装やセクシャルマイノリティ(当時は全然認知度の低い言葉だった)のコミュニティに積極的に入って
かの女装掲示板よりもより歳の近い人達との感覚の共有を嬉しく感じていました。
家族でさえ理解してくれないものを、同じく悩んで共有を求める相手に私は会ったこともない人たちなのに大切に思ったのでした。
私がやっていたSNSでも今も活躍しているのがコスプレイヤーズアーカイブ。

当時、私が買う女装用の服は
セーラー服とか、ナース服、バニーガールなど。
今思えばアニメやマンガのキャラクターを模倣する本来のコスプレイヤーの皆様からしたら勘違いも酷い話ですね笑
でも、コスプレと女装にはやっぱり近いものを感じていた私だったし
何よりも父親から禁止令の出たものを楽しそうに自身で体現していた人達は私からすれば物凄い人達でした。


そうやってインターネットでの交友の幅を広げながらも一人暮らしの自由度に焦がれて迎えた18歳の誕生日。
私は、今でも運命的だと思う出会いを果たすのでした。……


ここまで、非常に長々とした私のお話をお読み下さりありがとうございます。
また、お心を悪くされました方は、誠にすみませんでした。

ですが、これまでのことは鮮明にありのままのことでどうにかご理解を頂き
次となる最後の記事をお待ちいただければと思います。

ありがとうございました。


姫百合夢那について

1993年 6月12日京都府京都市伏見区生まれ
2011年 京都市左京区でSNSで出会ったニューハーフの恩師から姫百合夢那の名前を名付けられる。 2012年 桜美林大学入学と共に3月上京。12月に芸能事務所イマーゴプロモーションに女装タレントとして所属(2015年契約解消)
2015年 某原宿所在のコンセプトカフェにて多数ショー出演と海外を中心としたテレビメディア応対を担当。(詳しいお話は本人まで)
2016年 桜美林大学卒業。Studio RAAR所属開始。カメラマンとして始動。

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