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終電にかけろ

 関内のホテルで働いていた頃のこと。
当時私はホテルの客室清掃を掛け持ちしていた。千葉のホテルで清掃してから、関内のホテルに移動して清掃する。学生の頃に2時間半かけて通学したけど、社会人になってから1都2県をまたいで働くことになるとは予想していなかった。

 関内駅は横浜スタジアムの最寄り駅なこともあり、発車メロディーは横浜ベイスターズの球団歌が流れる。初めて駅に降り立った時はなんの曲かと驚いたけど、そのうちに慣れた。ベイスターズを愛するファンの賜物なのだ。試合の日になるとナイターの歓声が風に流れて窓から聞こえてきた。
 
もっとも、こちらも終電に間に合うように清掃を終わらせなければいけないので、「終電、終電、終電!」と悠長な気分とは程遠い感じであったけど。私は清掃が遅いのである。

 「じゃあ、次の部屋いくね」
 先輩が声をかけてくる。駅から近いビジネスホテルは部屋も小さく、いつも先輩と組んで清掃を行なっていた。2人の息子さんがいる、私とほとんど歳の変わらない先輩だ。「そうですね」と答え、その日は残すところ2部屋で終わるという時だった。

 清掃指示のある部屋に入ろうとした時。中からうめき声が聞こえてきた。先輩と私は顔を見合わせる。そして確かに清掃指示が入っていることを確認した。
 
 ホテルのドアは下の部分に若干隙間があるのが普通だけど、私がいたホテルは建てつけなのかなんなのか、その隙間が大きい。うめき声がよく聞こえた。男女のうめき声だった。

 昔も今も人は全部わかる、全部見えるよりも、隙間だの節穴だのからわずかに見える方により好奇心をそそられる。先輩と私は意図せず男女のうめき声をドアの隙間から聞くことになったのである。
 
 ところがこちらも感覚は麻痺している。なにしろ速やかに業務終了まで持ち込まないと終電に乗り遅れる。ということで、こちらの頭にあるのは、目の前の部屋を清掃するのかしないのか。それをどのように成し遂げるのか。それだけである。

「どうしましょうか?これ中の人に確認できませんよね」
 それでもちょっとうろたえながら聞くと、
「ここは清掃なし、ということで」
 と、先輩はほがらかに言った。そして何やら清掃指示書に書き込んでいた。私もそうですよね、とほほえんで答えた。

 その日はギリギリで終電に間に合うと、ベイスターズの発車音に送られて家路に着いた。ホテルで聞いてしまった男女のうめき声の記憶をベイスターズの発車音がかき消していった。あまり思い出したくないものを浄化してくれた。さすがに応援歌だ。明日も早いのだ。

 神奈川に住んでいたこと、関内も桜木町もみなとみらいも今も大好きだし、わりとしようもない思い出も含めて、また訪れたい。

 桜木町とみなとみらいを結ぶロープウェイが明日の4月22日から運行を開始する。今は不自由でもいつか自由に旅に出られる日は必ずくると信じている。だから、その日を楽しみに目の前のことに集中しようと思う。

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