見出し画像

切り取っても赤い

自己紹介をしようと思う。

僕が書く文章には温度がない。人に元来備わる感情と理屈の割合が変な僕は表現方法によってそこに篭る要素がわかりやすく異なる。絵を描けばひどく叙情的に、文章を描けばひどく叙事的になる。

だから僕の文章が無理な人はこの時間を自分のしたいことに使ってこ今のうちに他と差をつけろ。ぁあ。

普段は自分と友達のことばっかり考えてる。音楽を聴きながら散歩するときに作る脳内MVも友達と自分しか出てこないし、新しい人と出会ったときは身の回りの誰と何が似てるかばっかり考えてる。
中学の時から塾の自習室に行って白紙の紙に友達の名前とか自分を書いてカルテみたいに変な図とか作りに行ってた。そういう日を予定することは無くなったけど今もそういうことはする。最近になってわかったけど、これはポジティブに見えてネガティブな話。

友達思いとか人が好きとか思ってたけど、この原因は体内の熱が向く場所がなさすぎることにある。スポーツ観戦とか漫画とか音楽とかお笑いとか。そういうところに、外に外に興味や熱が向けば、もう少し視野が明るかったんじゃ無いかと思う。内に内に向くから、冬は死にたくなっちゃう。

でも熱が遠くに飛ばないおかげで半径数メートルを大切にするこの性格は、お金がかからないから良い。
散歩できたら良いし、友達に会えたら嬉しい。生活に枯渇するよりお金をたくさん持ってしまって今のスケールで物を考えられなくなる方が怖い。好きな人が健康なら本当にそれで良い。
でもそもそも飢えを経験した時代が貧困の対称となる富を求めるのは当然やけど、アルバイトでも余裕でお菓子とか買えるこの時代にまだ万人がお金を豊かさと直結させて捉えてしまっているのには違和感がある。

それは貧困と隣り合わせの時代が終わってもその時代を生きた人の富への憧れが教育という形で次の世代に紡がれてしまったからな気がする。
アルバイトでも綺麗な部屋借りてファミチキ食べれてNetflixで映画も見放題出来んのにまだ求めるのは時代の停滞というかはむしろ人間の後退な気がする。貧困の反動で富を求めた結果人々の生活は派手で豊かなものになったけど、そのせいで古来の自然を慈しむ心や風情が失われているのではないかい。

この世では何をしても良いから、電車で隣の席に座ってきたおっさんに肩パンしても、JKにこちょこちょしてもいいと思う。人を殺しても、自分で死んじゃってもいいと思う。でも僕はしたくないからしてない。それが大事。僕らは獣。社会の現象に善悪はあっても宇宙の現象に善悪は無い。だから優しく在ろう。入力と出力の呼応。インプットとアウトプットの羅列。感性を鍛える。事実を膨らませる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?