趣味を持てない人の仕組み。

 やるべき仕事が高校生のときは受験勉強だとする。そうすると大学に入ってやるべき仕事がそれまでとは変わってしまうと、やることがなくなって退屈を覚える。大学生のときに自分のやるべき仕事をやっていて、社会人になってやるべき仕事が変わってしまう。
 趣味というものを持つ、趣味は英語でホビーでありライフワークに近い言葉だと思うが、ことの練習はどこかで学習するものではない。習慣みたいなものだから高校生までに学習したものを惰性で大人になっても続けるのかと思う。学習し直す契機などない。
 社会人になる契機などというものは特に自分で思うものではないはずだ。環境から学習するというか。そういう契機を失った人間は自分で出会うしかなくなり、なかなか社会人になろうとはしない気がする。
 趣味を持たない、ということが大多数の人間にとって当たり前のことなのだと思う。その理由について実感が湧かなかったが、環境に適応するたびにやるべき仕事を見つけ続けられる人にとっては関係ないわけだし、そういう習慣を持つ人にとっては関係ない。
 そうすると、環境が変わるわけだからそれまでのやるべき(だと思っていた)仕事はやるべきものから外れてやらなくなる。

 自分の好きだったものから広げていく、という好きなものの広げ方というのは当たり前すぎて、そういう個人的な行為自体を誰かと共有するということがないと、それについて考え直さないかしら。

 消費者としての弱いエゴみたいなものを意識するかしないかは環世界を移動するという行為についての意識のないところでは発生しないのかもしれない。自意識過剰というのはひとつの環世界のなかで自分について語り続けることから生まれるのかしら。

 同じことしか考えられないということに対する不愉快さってのは嫌なものだ。お勉強が不足しているか。