インターネットについて①「人付き合いについて」

インターネットについてきちんと考えてみようと思う

インターネットで相手を人間と認めて付き合う人数は、現実の学校や職場での友人や家族とあわせて、合計20人までにするべきである。

インターネットの友人がリアルの友人より劣るとか優るとかではない。かくいう私もインターネットに交流を求めた時代もある。

人間として認めるというのは、相手の好きなものや嫌いなものについて覚えようとしたり、自分の好きなものや嫌いなものについて覚えてもらおうとする相手だと思えば良い。顔を合わせたら挨拶はするだけで相手の好物に興味がないなら人間として認めているとは言えない。

人がまともに交流できる人間の数には上限があり、それはどんなに多くても20人くらいで、それを超えると負荷により徐々に狂っていくか脳が死んでいくわけだが、インターネットでの交流もきっちりとそれにカウントされる、という当たり前の話だ。

また、相手の好物に興味も無いようなのに、話しかけたり、話しかけられたら相手をするというのは、本質的には壁に向かって呟いてるのとそう大差なく、脳の容量こそ消費しないのであるが、時間を浪費するため無駄である。深く話し込むほど無駄だ。言葉のキャッチボールの練習には良い。

これとは別に、TwitterやInstagram(これらは現時点での代表格であり、今後廃れる可能性もある)のようなSNSでフォローし、交流こそしないものの興味を持って日常的に相手の発信内容を観察する相手、という人間についても注意すべきだ。

インターネット以前の時代でいうならば、興味のある哲学者や思想家、作家といったところだろうか。

それらと違い、インターネットによって彼らの日常のようなものが見えるようになった。しかしそれは日常ではない。どうしても彼らについて気になる良いところだけが目につく。

だから、インターネットでこうなりたいという人間をフォローするのは5人までにした方が良く、また、こうなりたい人を5人フォローしたら、"こうなりたくない"人を5人、フォローなり隠れてリストにするなりして、同じように日常的に観察するべきである。

こうしないと、インターネット越しに良いところだけ見える人間を見続けると、よほどきちんとした自我を持っていないと気が狂うし、狂わない確かな自我を持っていても日常的に負荷を受けることになる。

"こうなりたい人"と"こうなりたくない人"は、きちんとこの人のこの部分を見習いたいとか、この人のようなこういう点は真似しないよう気をつけたいとか、言葉にして説明できるようにするべきであり、そのことは毎日でなくて良いが、実感した時に思い返して再確認するべきだ。

こうなりたくないと思わない、例えばすこすこなすけべイラストを供給してくれる絵描きであるとか、政治的なニュースを解説してくれるとかは、目的に沿ってそれぞれ考えるべきであり、それは各自の人生や仕事によって全く変わる。

基本的にはこれらも5人までにした方が良いし、反対側のニュースも嫌いなイラストも同じ数だけ見る必要はないが、興味はなくともBLやアベガー、狂ったフェミや狂ったアンチフェミの情報も少し混ぜておくと、もしもの時に気が狂いそうになったらストッパーになる。

インターネットはとかく気が狂いやすいものである。人類という毛の抜けた猿には、まだ手に余る技術だと言い切れる。基本的には何も備えがないと気が狂って死んでしまう、過酷な場であると思っておいた方が良い。


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