自由と無法 食ったこともない高級寿司にケチをつける自由

はじめに

最近特に思うのだが、自由という概念がインターネットで暴走している。自由というのは、「その結果自分が間違っていたりしたら責任を取る、ある程度の筋道や道理は通す、倫理に反しない」といった、暗黙の了解を前提とした、「何をしてもいい」だと思う。

例えば、道端でちんちん丸出しで歩く「自由」は現代の日本社会にはない。違法行為として逮捕される。鎌倉時代ならストリーキング自体は罰されなかったろうが、なんだこの気狂いはと矢の的にされたことだろう。

あくまで現代日本においての自由とはまず「法に触れない範囲」であるし、法に触れないことであっても「その結果に責任を背負う覚悟」はあるものを指すと思うが、「自由=無法」と履き違えてるバカが多いと思う。

といっても自由と無法を履き違えるようなバカに説いてやっても時間の無駄なのだが。

食ったこともない料理にケチをつけるのは自由なのか

「5万の寿司なんて1万の寿司と大してどうせかわらないから1万の寿司を5回くったほうが幸せだ」、これはさもしい考えだと本当に心の底から思ったケチつけだ。なぜ食べたこと無いものについてそんなに不誠実な事が言えるのか。

俺は自分の金で食ったものについては、自由に感想を言っていいと思っている。たとえば食べログ1位のすぎ田という寿司は大して美味しいと思わなかったので、自分ひとりで行くことは2度とあるまい。

しかし、「食べログ1位の寿司は本当に95点くらいのうまさがあるのか」は一度確かめねばならなかった。ミシュランの星持ちは本当に星無しよりも美味いのか、を確認するみたいな禊だ。

これは、高価で人によっては手が届かない寿司だから敬意を払うのではなく、想像のつかないものはきちんと食べてから感想をいうべきで、想像もつかないものを食べもせずに批判することは卑怯だと思っている。

食べたうえでケチをつけるなら自由で、食べずにケチをつけるのは道理の通らない無法だ。

コンビーフさんは食べたこともない餃子でイキってるが俺はきちんと食べた。まずかった。閉店したのでもう食えないが。

八代目儀兵衛も行ったが大したことなかった、2000円でそこそこマシなご飯がマシなレベルで出るだけ。想像の範囲でつまらんかった。「2000円で食べログ3.6」の店に奇跡なんてない。1000円ぽっちのラーメンで感動するほど美味いこともありえない。「5万円で食べログ3.6」の店ならたまに奇跡がある。

八代目儀兵衛は「2000円で、10分以内に炊きたての、きちんとした米をきちんと炊いたご飯を出す」という一点では素晴らしい店だし、2000円までしか外食に使えない人にとってはかなりいい店だと思う。80点ってところだな。

だが、1万2万だせばこれよりうまい、「本当に丁寧に炊いた、炊きたての1分以内に出てくる土鍋ごはん」とかが食えるし、「炊きたてじゃないけど酢飯」ならこれよりうまいシャリの寿司屋なんてなんぼでもある。そもそも俺の自炊の飯のほうがうまい。精米したてを自分好みの水加減で炊きたて1分で食うのだから。

これも、「食べログ3.6点で2000円でご飯一点突破ってことはこのくらいだろうな」と直感でわかっちゃいたが、「格別だ」というのなら、ちゃんと自分で食ってから「こんなもんだな」と言わないと不誠実だと思った。何より、「だいたい答えが見えた」世界に、「想像を超えるもの」が本当にあったらそれは素晴らしいと思って。まあ、想像どおりだったんだが。

インターネットは無法がどんどん拡大している

こういう誠実なんて、自己満足にすぎず、みんな無法を思う存分振り回している。しかし、だからこそ気が狂うのではないかと思う。人類が初めて接しているこのインターネットという深奥で気が狂わないコツは、自由と無法をきちんと判別し、自由ではあっても無法にならないことではないかと、俺は思う。

そんな俺も、流石に食わないものがある。例えばコンビニスイーツとか、バズごま油レシピ、ホットサンドメーカー料理のたぐいだ。あれらは食わなくてもわかる、と思う。不誠実であっても、あんなものをいちいち食いたくないと思う。

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