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「書くネタがない」というネタについて

dkatsuraからこのnoteへの執筆依頼を頂いた。
「書いてください」
「わかりました」
ここまでは良かった。

でも指定の締切を過ぎた今困っている。
書くネタがない。
と、そこで気づく。起死回生。
書くネタがない、という状態は書くネタになりそうだ。
これについて書いてみよう。

「書くネタがない」とはどういうことか。
ないことはないだろう。
別に今日の昼食について書いてもいいし、住んでいる家について書いてもいい。仕事について書いてもいい。
書けることは沢山ある。
だから
「書くネタが無い」というのは適切な表現ではないのだ。
実態は
「面白く書けそうなネタがない」とか「自分が書きたいと思えるネタがない」
ということなのかもしれない。
実際これらの方が自分にはしっくり来る。
もっというと
「自分が書きたいと思える、かつ面白く書けそうなネタが無い」
かもしれない。

でも、考えてみたら書きたくないものを書いたっていいし、面白く無いものを書いたっていい。

それに、面白さとはなにか。
誰にとっても面白いものなど存在しない。
それなら自分にとって面白いものか。
でも公開することを前提にする以上、自分が面白ければ良い、という態度も一般受けするものではなさそうだ。

いずれにしても、問題を具体的に捉えられると解決の手段が増えてくる。

「書くネタがない」
という問題を解決しようとすると、
「なにか書くネタはないかな?」
と探すことになる。

でも、問題を「面白く書けそうなネタがない」と捉えると、
「面白く書けるネタはないかな?」
と探す事もできるし
「面白く書くことを諦める」
という選択肢も出てくる。
問題はネタが無いことではなく、自分の勝手な思い込みや過度な意気込みにあるのかもしれない。
そもそも自分に面白いものが書ける、というのも勘違いかもしれない。

自分の思考や状況、抱えている課題を正しく捉えることは意外と難しい。
問題は往々にして、外界ではなく、自分の内側にあるのかもしれない。
でもこれにはなかなか気が付かない。
自分のこれまでの人生でも問題を捉え違えて苦しんだことは沢山あったんだろう、と思う。
都合の良い頭だからあんまり覚えてないけど。

ふと「書かなくてはいけない」も思い込みに過ぎないかもしれないと気づく、
書かなくても良かったかもしれない。
でもそれはもういい、ここまで書いたのだから。

仕上げに他の人も写真を載せているので写真を探してみた。
(これも本当は別にやらなくてもいいかもしれない)
でもやっぱり写真がない。
(写真がないことについて考えると文量が2倍になるのでもう書かない)
仕方がないので、ネタつながりで昨年末の寿司ネタのエビの写真を貼る。
エビはこの後握りになった。

こうして二度目のネタにすることがせめてもの供養だ。

年末に一人の時間があったので生まれて初めて銀座で一人で寿司を食べた。
それなりに高かった、が美味しかった。割と良い年末だった。
と、ここまで書いて、そうかこういうネタについて書けばよかったのかもしれない、と気づいた。

おしまい。

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