余白を見て、行間を読む生活のススメ
はじめましての方ははじめまして。また読んでくれた方はありがとうございます。hiloaki.kと申します。毎度言っていますが、今回も随分と更新できずに月日が経っていました。
今日は自分が最近写真をTwitterというツールで鑑賞しながら思うことを書いていこうと思います。
1. 情報の海から写真を拾うとき
僕はTwitterに投稿された写真は基本的にiPhone8で見てます。
できればWi-Fiがあるところで。
なんでかというとデータ量を食っちゃうと嫌なので、Twitterの設定で4Gでは高画質で画像を見れないように設定しているからです。
するとこんな感じに見えてます。
このガタガタの写真を見続けていると地味にストレスが溜まっていきます。できれば写真はストレスなく見たいので、基本的にはWi-Fiのあるところで見ます。どうしても気になったらその場で高画質で見てしまったりするんですが。
サラーっとタイムラインを眺めながら、「おっ」と思った写真をタップしたりします。いいねを押したりRTしたり。そしてコメントを残したくなったら引用RT、リプライのどちらか。(ここの使い分けには微妙なポリシーがあるのですがそれはまた別の日に。)
更に気になるとボーナスタイム突入。
4Kで読み込みをします。
最近、PCから高画質画像を投稿するとめちゃくちゃ超高画質で写真が見れるわけです。個人的には別所さんのこちらの写真がおすすめ。
そんな感じでTwitter鑑賞を毎日繰り返してる僕ですが、この情報量のステップがめちゃくちゃ楽しいんです。
情報の海に飛び込むときでも、その飛び込みの深度は自分に主導権があってほしいのかもしれません。
2. コントロールされた感動と偶然性の乖離
最近、Twitterであえて縦の構図の写真を投げて「タップしてください!」と仰っている方を見かけます。
タップするととんでもない風景が広がっている。おおっと言ってしまう。
他にもTwitterでよく使われるギミックには例えば透過画像を準備してPNGで投げると「上に飛んでいく〇〇」みたいな画像あそびがあります。
これってすごい面白いんですが、やっぱりどこか「あっ」という驚きと共に、僕はちょっと踊らされた自分が悔しくなる時が多いです。
コントロールされた感動的な。
あと、ツイートをした方の「ほら、見ろ!な!すごいだろ!」が透けて見えすぎてちょっと引いてしまうのもあります。タップしたければするし、したくなければしないよ…暑苦しいな…と斜に構える嫌な奴の自分がいます。
自分が出会う写真は気分や場所、最近ならデータ環境の偶然性を大事にしたいな、と思うんですよ。写真を撮る時もそうだし、撮って上がってきた写真を見るときもそうです。だから、決められた方法で画像を見るのは正直ちょっと身構えてしまう。
キャプションに対しても似たように思っているところがあります。
昔、某有名twitterの方のグルメ紹介における「マジでこの世の全ての~」構文が流行りました。
情報量に対して過剰な装飾が特徴のこの構文が僕はどうにも苦手で、装飾によって押しつけがましさが出ているように感じられて仕方なかったんです。
同じ140字パンパンに呟くにしても、どこかに解釈の余裕が欲しい。
膨らませようと思えば、その140字が20000字にもできて逆に17音にもできるものがあればいい。それは筆者側が膨らませる場合もそうだし、受けて側が膨らませる場合もそう。
例えば「この三枚目の写真、どこで撮られたんですか?」という質問よりも、「この三枚目の写真、公園の一人の時間が際立っていて最高です…」の感想が個人的には嬉しい。
たとえその写真を撮った瞬間が一人じゃなかったとしても、その解釈は正しいし、写真やキャプションにその余裕があったことが嬉しい。
ついでにもう一つ、Twitterをするうえで楽しくて悲しい点はSNS空間の流動性です。
Twitterの仕様上、一度流れてしまったツイートってもう二度と勝手に上がってくることはない。自分や他の誰かがリツイートしたり、コメントしてage(古いですかね)直さなければTLのトッププレイヤーには戻れないわけです。
それがすごい良いところでもあり、人をTwitterに縛り付けてしまう原因でもある。
僕は「自分が見た瞬間」に「流れてきたもの」にいいねやRTをしたい、と思っているのにあまりに手に追えない数が来てしまうと「逃してしまった」という焦りや残念感が拭えずにあわあわしてしまうんです。
それはたぶん根源的にはこのnoteに書いた感情に似ています。
情報の海、と前章では言っていましたがTLは川に近い感覚です。
それをただ眺めている、というような。
3. 偶然を許容する余白と行間
話が右往左往している印象がありますが…。
まとめておくと、僕なりのTwitter鑑賞のルールは以下四点でしょうか。
・画像の情報量階層を一歩ずつ踏むこと
・鑑賞方法・感想方法を固定されないこと
・写真を見るときには偶然性を大事にしていること
・TLの流れは自分で終える程度の流量にしておくこと
要するに、写真も文章も余裕があってくれということです。
余裕があるということはつまり、写真には理解のための余白があって文章には解釈のための行間がある。
発信する側から余裕があるものが出されれば、受け取る側も余裕の中に自分の考えを入れていくことができる。
まだ僕の写真は少し硬くてその柔軟性はないかもしれないけれど、受け取り手としてまずは様々なツイートの中に余裕を見つけ出せればなと思っています。
僕がフォローを絞っていることを偉そうなやつ、と思っている方も大勢いらっしゃると思います。ただ、僕の余裕を生み出すための苦肉の策です。
いつもフォローしていいねしてくださっている方の写真の海には時折飛び込んでいこうと思っています。
言い訳に代えてこのnoteを終えます。
サポートいただけたら嬉しいです。のんびり写真を撮り続けています。