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「利他愛」だけでは幸せになれない

「利他」の意味を広辞苑でしらべてみると…

1 自分を犠牲にして他人に利益をを与えること。他人の幸福を願うこと。
反対語は「利己」
2 阿弥陀が人々に功徳・利益(りやく)を施して済度すること。
広辞苑より

1の考え方は、宗教に限らず、学校教育でも「正しい」と信じられています。

私もずっとそう思って何十年も生きて来ました。

「利他愛」という言葉を知らない幼児でさえ、弟や妹が生まれたり、保育園などの集団生活が始まると、「利他愛」の精神を教えられる。

大半の人は疑問も持ちません。

子供の頃からそれが「正しい」と教えらてきたから。

でも、実際にそこまで他人のために生きられるでしょうか?
私はできません。(´•̥ ω •̥` ) 
(宗教にのめり込んでいた頃は別ですが… )

ではなぜ、
「利他愛」という考え方が危険なのでしょうか?

詳しく見ていきます。

宗教団体にのめり込む人は、心が未熟な人が多い


一般社会でも心が未熟な人はいますが、
宗教にのめり込んでしまう人は、精神的に未熟な人が実に多いです。

一見崇高なことをやっているように見えますが、悩みを抱え、問題を行き詰まらせた人の集まり。

もちろん、全員ではありませんが…

しかし、訳ありの人が多いのは事実。

話を「利他愛」に戻します。

宗教団体では、「トクヅミ(徳積)」という名の奉仕活動が行われています。

信者さんは真面目な方が多いので「世の為人の為」との利他の精神から熱心に活動しています。

つまり、一般人よりもはるかに「利他愛」の精神が強いように思われる??。

なぜ「??」としたのかは後ほど述べます。

私は実際に奉仕活動をやっていたのでわかりますが、本当に頭が下がるくらい熱心な方が多数いました。

しかし…

そこまで、一生懸命に他人の為に無償で働いているのにどうして宗教は争っているんだろう?

って思いませんか?

実際私も、奉仕活動していて仲間はずれやイジメをたくさん見ました。

「世界平和」「人類救済」と言いながら、同じ教団の仲間ともケンカしている。

彼らは、思考停止しているので、自分たちの言動の矛盾に気がついていません。

だから、
「仲間内で争ってる人間に、人を救うことなんてできないんじゃないですか?」
と聞いたら、逆ギレされ、それがきっかけで、私もいじめられました。


「心の未熟な人が利他愛で奉仕活動しても、物事を複雑化してしまう」

中途半端な利他愛は争いを生む。

これも、私が宗教から離れて行った理由です。

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