束の間の永続、響き合う絵画
去る10月14日、〈引込線/放射線〉の第1期会場である第19北斗ビルが会期を終えた。周辺のロケーションも含めて見ごたえのある場だっただけに、一抹の寂しさが残る。とはいえ今はその余韻に浸っている暇はない。台風の影響でオープンが一日遅れたものの、第2期会場の旧市立所沢幼稚園が同時期に開幕した。14日に開催されたレセプションは、いわばクロージングとオープニングが重ね合わせとなる特別な夜だった。異様なテンションが行き渡った酔っ払いたちの饗宴は、じきに訪れる北斗ビル解体の運命を吹き飛ばすようであり、「きょうはあしたの前日」感に満ち満ちていたように思える。
イベント中心の第2期も残すところ一週間となったが、プロジェクトが佳境を迎える前に、北斗ビルで行われたひとつの忘れがたい展示について書き残しておこう。その展示とは、第20北斗ビル3階の小部屋数室を使って展開された「Permanent Collection」である。
「Permanent Collection」インスタレーションビュー
撮影:阪中隆文
画像提供:引込線2019実行委員会
© 辰野剛、平出利恵子
本展の企画者は〈引込線/放射線〉の実行委員長も務める大久保あり。小部屋の入り口となる扉には、「Permanent Collection」の表題に3人の画家の名が英字で記された金色のプレートが取り付けてある。すぐ隣のスペースではアートユニットhanageの騒々しく混沌としたインスタレーションが繰り広げられているが、少しかしこまったこの扉を経て空間は分節され、観賞者は個人の私室を思わせる静謐な小部屋へと招き入れられるのだ。
室内には、3人の画家(辰野登恵子、孫田絵菜、鹿野震一郎)による絵画作品と版画作品が設えてある。一見すると極めてオーソドックスな絵画展なのだが、しかしそのスタティックな空間は、絵画・彫刻作品が少なくインスタレーションや映像作品が多めの〈引込線/放射線〉においては反動的な在り様にも映る。
これはキュレーションなき自主企画展の内部に仕掛けられた「企画展」なのだろうか。それとも「Permanent Collection」という名前が示す通り、美術館におけるコレクション展を模したフィクショナルな「常設展」と見るべきだろうか。かつては複数の企業や店舗が入っていた北斗ビルは解体が予定されている建物のため、ここに設置された作品がpermanent(永久、不変)に残るということはそもそもありえない。語義矛盾を孕んだタイトルからして、この展覧会はじつはトリッキーな側面を孕んでいるのである。
周辺で繰り広げられる展示から少し距離を置いた「展覧会内展覧会」の成り立ちについては、いくらかの説明を要する。まず、〈引込線/放射線〉に参加する35名の作家・書き手たちはプロジェクトの運営にも関わる「実行委員」でもあるのだが、「Permanent Collection」に出品した孫田と鹿野、そして展示の「解説文」を寄稿した美術評論家の中尾拓哉は「実行委員」ではない。あくまで北斗ビルのこの展示のために、企画者の大久保のセッティングをきっかけに集められた面子である(彼らの立ち位置は、おそらく「ゲスト」という呼び名も正確ではないだろう)。故人である辰野に関しては、ご遺族の協力を得て特別に作品を借りることができたのだが、その経緯には幸運な偶然の積み重ねがあったようだ。つまり、辰野が特別にこれまでの「引込線」や今回の〈引込線/放射線〉と関係性が深い作家というわけではない。
こうした事情を踏まえてあらためて考えるに、「Permanent Collection」は〈引込線/放射線〉の「内部」に「外部」を導き入れた特異な入れ子構造をもつ展覧会と捉えることができるだろう。私自身は〈引込線/放射線〉の実行委員であるが、扉を開けて室内に入った瞬間から、〈引込線/放射線〉の内部の人間であるはずの自分が外部からの訪問者に仕立て上げられたような不思議な錯覚をおぼえた。個人の私室を思わせる内装のせいもあってか、見えない敷居をまたいで位相の異なる空間に足を踏み入れる感覚があったのだ。
(引用RTの入れ子に内包された「Permanent Collection」のプレート。この扉が通じているのは、展覧会の「内」だろうか、「外」だろうか。入れ子はやがて反転し、企画者の意図のその先で絵画と言葉を出会わせる)
だが、この入れ子構造も図式的に捉えられるほど単純なものではない。中尾によるテクストが、制作空間と絵画空間、さらには展示空間から現実空間への連関を示唆しているように、展覧会の内と外は反転しつつ相互浸透や干渉の気配も忍ばせている。その気配に気づいたとき、観賞者である私たちは心の内にさまざまな問いを招来させることになるだろう。絵画にとって本当に相応しい展示空間とは何だろうか。画面にあらわれるイメージがキャンバスの枠を超えて外界に転移する現象をどう捉えればよいのか。ひとつのイメージはどうして別の場所にあるイメージに似るのだろう。コンセプトも文脈も共有していない作品同士が、奇跡的な相対によって響き合いを示すのはなぜだろうか?
10月6日に行われた「《Permanent Collection》関連トーク―展覧会の内と外をめぐって」には、企画者の大久保、出品作家の孫田、鹿野、そして寄稿者である中尾が登壇し、私はインタビュアーとして(いわば少し距離のある観察者として)展覧会が出来上がるまでの経緯を聞くことができた。
特に興味深かったのは、展示に対するそれぞれの介入の度合いが意外にも「消極的」だった点である。消極的というのは決してネガティブな意味ではなく、展覧会を完成させるまでの操作において、それぞれが絶妙に「引き」の姿勢をとっていたということだ。本来であれば3人の画家の中で一番「大御所」である辰野の作品が前面に取り上げられたり主張の強い見え方になったりしそうなものだが、大久保によるとこの展覧会は「はじめに辰野作品ありき」で企画されたわけではないらしい。「良い作品を作っているのだからもっと世に知られるべき」という動機から大久保は最初に孫田に参加を呼びかけ、その後に鹿野の参加が決まり、中尾は開催直前のごく短期間に「展示の完成を見ずに」テクストを執筆した。孫田は辰野の影響を少なからず受けているようだが、辰野作品の展示を提案したのは孫田本人ではなく鹿野であり、中尾も今回の展示のために辰野に関する調査を積極的に行ったわけではないらしい。また、大久保が「私はほとんどキュレーション的なことはしていない」と語っていたのも印象的だった。
誰か一人がキュレーション力をふんだんに発揮して場を統制するのでもなく、強固な文脈を覆いかぶせて作品の関係性を意味づけるのでもなく、ときに自分ではない誰かに場を動かす力を委ねること。あるいは相手の動き方を期待して先読みし、自分の処し方を決めること。その結果、さまざまな偶然の積み重なりによって、宙吊りの感覚が行き渡った美しい展覧会が成立したのだ。トリッキーな側面もありながら「Permanent Collection」が極めてオーソドックスな絵画展に見えるのは、偶然を必然に錯覚させる説得力、具体的にいえば、設えの完成度の高さゆえかもしれない。
実際に展示を見ると、辰野、孫田、鹿野の作品は、どれが強い主張を誇るでもなく、繊細なバランスを保ちながら視覚的な響き合いを生み出していた。
伊藤久三郎や古賀春江など日本近代のシュルレアリスム絵画をどことなく想起させる鹿野の実験的絵画空間は、細部のさざめきへと視線を引き込み没頭させる孫田のアンティームな画面と相性が良く、装飾的な筆致と退色風の淡い色彩で構成される孫田の《バンダナ 茶 Brown Bandanna》(2017)は、(本展には出品されていないが)辰野の装飾的な抽象絵画が絵画=布地の身近なスケールに転生した姿にも思え、辰野のストライプは室内のブラインドと呼応して造形的なリズムを奏でている。そしてこのような響き合いの構造は、ブラインドならぬblindの状態で――つまりは展示を見ずに――書かれたとは思えないほどに展示の在り様に分け入った、中尾のテクストの「内部」にも畳み込まれている。3人の画家の「声」を引用し、さらにはその引用文をボールド体で際立たせることで文章の層構造を視覚的につくりだした中尾のテクストは、「テクストtext」の語源が「織物textile」であることを想起させるという意味でも、ひとつの造形物を思わせる。
(晴れた日の昼間。室内に掛けられた「解説文」には窓の外の景色が映り込む。テクストに映像が重ね合わされ、帰属を失った「声」が浮遊する)
窓の外から見晴らせる線路に西武線が通過して走行音が低く響くとき、あるいは駐車場のスペースで展開されるバーノーザンライトでのトークショーの様子がガラス越しに見下ろせるとき、「Permanent Collection」の小部屋が必ずしも隔絶された私室ではなく、外界と何らかのかたちで連関する時空間のひとつに過ぎないことに気づく。permanentの語の中にtemporalの感覚が宿るのだ。永続の中に束の間が、束の間の中に永続がある。
偶然の積み重ねで出来上がった展覧会はじつは作為やトリックも含んでいる。その在り様を無垢で奇跡的なものと見做す素朴さは避けるべきだとしても、そこには外部の世界と異なる緩慢なテンポがあり、美しく壊れやすい嘘、フィクショナルな美と言うべきものが確かに存在していた。
(中島水緒)
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