見出し画像

「つもり」以上の「達成感」(想像上手の話)

やりたいことをやる前に、すでにやり終えてしまって困っている。

以前に、公私ともにエンタメコンテンツに慢性的に触れすぎたせいで、「世の中全てがストーリーコンテンツなのでは?」と錯覚しかけ、戻ってくるまでに時間がかかるようになってしまった時期があった。なにを見ても作り手を向こうに意識してしまい、世界そのものとの向き合い方が「見る価値があるか」みたいなことになっていて、怖かった。
私の中でこれは「非コンテンツ不感症」と名付けられ、略して「ヒコフ」と呼んでいる。幸いヒコフはその後全快し、無事に演出家なしのこの世界の偶然がつくる美しさを享受できる身となった。

今回困っているのはこのヒコフではない、新たなオーバーファンクションである。それは、想像力が豊かすぎて行動力が追い付かず、結果としてものすごく怠惰な毎日を実現するという、恐ろしい状態だ。
仮想現実や拡張現実が当たり前の時代に私が先取りしてしまったのは、言ってみれば「仮想達成」である。あくせく苦労したあとに自分の努力を振り返って感じるはずの達成感を、人が制作したコンテンツに相乗りしてばっちりご相伴に預かってしまっているのだ。

「ひょっとするとちょっとまずいのではないか?」と初めに気が付いたのは、友人たちと筋トレの話をしていた時だ。
「筋トレをしようという気持ちはあるが、筋トレの動画を見るだけで終わってしまう」という話を面白おかしいトーンでしたところ、趣味嗜好がよく合い、互いの思考回路もよく把握し、何よりリスペクトしあう仲での会話において、自分にとって不穏なほど理解が得られなかった瞬間が訪れた。
動画の話は盛ってもいない真実で、20分ほどある筋トレ動画を1本と言わず数本見ることはざらにある。こうした動画を上げてくれるひとたちを心底尊敬しているし、これで理想の自分に近づける視聴者も本当にすごい。そう感じて寝転がりながらコメント欄の「通知でリマインドしてください」ピープルを観測しているとあっという間に、心地よい疲労感とともに動画視聴が終了する。そう、視聴者が一緒にトレーニングしやすいように考え抜かれた撮影や編集を享受したり、どれくらいキツいかを語らうコメント欄を読んでいるうち、どこからともなく「やってやったぞ」という達成感が沸き上がり、頑張ったチームの一員になって誇らしく眠りにつく自分がいるのだ。
このエピソードは何度か笑いごとで済んだことはありつつも、どこか自分のなかで引っ掛かり始めた。

もうひとつ怖いなと思ったのは、料理だ。
「作り置き」や「献立作り」などに憧れがある私は、その食い意地とは裏腹に調理能力に欠ける。そこで「1週間分の夕食を1度の買いだしから調理する」動画や、「土日に5種作り置きする」動画を見て、調理の上手い人の頭の中を追体験し、大変な満足感を得ている。
実際にそうした計画的な買い出しや調理をしたことはないにも関わらず、効率的で無駄のない美しい組み立てと調理に気分を高められ、モノにしたようにしたり顔で頷いている。

あとひとつ気になっているのは、創作だ。
noteで記事に書きたいなと感じたテーマを思いついたのに、実際には公開に至っていないテーマがいくつもある。書き始める前に、内容や構成を考えようとしたとき、書き終えた瞬間のやりきった気持ち良さや、記事が公開された状態の記事一覧の充実、読み返して自分で納得したときの充足感、そうしたものが一気に脳内にものすごい解像度で生成され、「やってやるぞ」というパルスがふわふわと解散していってしまったのだ。
試験勉強で蛍光ペンを引いたら勉強した「つもり」になってしまうのとは違う、ノーペインでゲインしてしまった張りぼての「達成感」をたしかに脳に迎えてしまっているのだ。

これは一体なんなのだろう。恋愛ドラマを見てロマンスに浸り、ゲームで戦いを疑似体験し、映画や舞台でさまざまな人生と世界を垣間見る――ふだんコンテンツを通してしていることとさして変わらないはずなのに、「簡単には出来ないけどしようと思っている日常の作業」にこれが適用されるときわどくなってきてしまうのはなぜだろう。
実際にはオシャレになったり綺麗になったりしていないのに、美容系YouTuberさんの動画を見て仲間入りしたように自己肯定感が上がることと似ているのだろうか。でもそういうコンテンツに関しては動画中に一緒にショッピングやメイクをしていく作りにはなっていないし、私は動画視聴後に実際に真似や参考で行動を起こすことはよくある。
筋トレ、料理。「未知」だった行為の仕組みが骨組みから分解して説明され、材料単位になることで距離感が縮まるという効果は少なくともあるなとは思う。でも創作は?
思えば昔から何か本場に向けての練習なんかも、ある程度情報収集をして道筋が見えると、本番までは全然身が入らず、先人の話を聞いてさらに当日の想像の解像度を上げるばかりだったことも多かった。自分はもしかすると、「行き方」がある程度把握できれば、実際にそこに時間と行動を賭さずとも「不安ゾーン」からは抜け出ししまい、「頂上の景色」の察しがつくと途端に安心し、睡眠の魅力に負けてしまう人間なのかもしれない。

しゃらくせ~~~~!!!!!
言い訳やめろ~~~!!!!!

分かってるんです…「やったことない」ことで起きる「そんなことも知らないの」がいやで、それがない世界線に飛べる手段が動画なだけで、自分が薄志弱行だけだってこと!したことのない努力の「あるある」が想像で語れるようになったところでな~んも偉くないのよ!このおバカ!あんぽんたん!

実際この記事も筋トレと料理の件があって「記事にしてみたいな」と思ってからはや2週間手つかずでしたが、ふと気が向いて向き合ってみたところ、思ったよりしょうもなく情けない自己分析となり、公開すら迷いながら、それでもこれは別にシンドロームてきなものでもなんでもなく「ぐだぐだしているヤツ」であることが確定しただけでした。
自分語りって前に進むために大事です。ありがとう。
気を取り直して「実際にやってみた」を自分のなかに作るべく――あれ「実際にやってみた」動画の撮影を編集してアップしたシーンが脳内に急に…ああ、ああ~~~!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?