うねうね、排泄、決別


2020と2023の曲 14曲を並べたプレイリストなんかを作ってしまった。特別な思いが乗った曲ばかりで、聴くたびにカロリーを消費する。
聴くにしたって同一プレイリストにすることないじゃないか。自傷行為もいいところ。


後から思い返すと、去年撮影係を任されたの、ともすれば拷問にも見える。
いえ、仕事をやってる最中は純粋な気持ちで応援していたし、公演の手順がひとつひとつ順調に進んでいくたびに心の底からガッツポーズしてた。うまくいってる様子を間近で記録する仕事、を納得して遂行できていたし、カメラの技術を買われたわけじゃないので間近でバカみたいに素直に応援してればいいと思って気は楽だった。

そのレンズには自分と仲間たちも映るはずだったとか、仕事中にそんなカス感傷に取り憑かれなかったのは幸運だ。今でも別に思っているわけじゃない。
羨ましい羨ましい羨ましいと思っていてもいいはずだけど、もうそんな熱もこみ上げてこないほど、時間が経ったんだ。


誰も読んでくれるなこんなもの。
排泄物を開陳する趣味はないつもりなのに。ウンコって一周回って逆に恥ずかしくないみたいなところあるけど、これは検尿のボトルを自分の席に置かれているみたいな気分だ。
なんでこんなことを書いているんだろう、わざわざ。
コロナ禍が始まってからもう4年も経つのよ。え、4年!??
でも4度も季節をめぐった今だからこそ、自分にも失ったものがあったのだと、ようやくようやく実感できたのかもしれない。
熱をもってはいないけど、底に溜まっていたうにゃうにゃが浮き上がってきた。きたからにゃあ、ちょっとくらい撫でてやろう。

コロナ禍が始まった2020年4月は私が3回生になる春だった。大学に入学して最初の2年は普通に過ごせていたわけだし、1個下2個下の1,2回生でコロナ禍に直撃した人の方が不憫だよなと、自分は逃れられた側だと思ってた。
その世代はその世代で悔しい思いをしたはずなのは間違いないはず。でも自分がダメージを食らっていることに気づきたくない、慰めをかけられる立場にいないと信じたかっただけかも。他人を憐んでいることで自分は惨めでないと信じていたのかも。

1年近くかけて準備してきた公演を、わけのわからないまま本番の1ヶ月前に突然取り上げられる、って。事実だけ振り返ってみると、ヤバいねえ。その当時は当事者だったからかあんまり思えてなかったのかもしれないけど。
合宿で大ケンカ寸前になったり、結構な大道具セットを1人で作ってたり、演技はうまくいかないし、トップバッターが足引っ張るなよ〜。文字に書くと苦労もしてたみたいだ。他のメンバーももっと心労がありそうだった。かも
去年の公演が準備がいちばん盛り上がってきた4月で打ち切られていたらなんて、想像するだに恐ろしい。

このうねうねは解決を目指してどうにかなるようなものではない。きれいにほどけるようなことはない。納得もできることじゃないし、怒りの矛先も存在しないし。やるせなさを認めたまま蓋をするのがいい。
メラメラ燃えるような感情なら手を焼いたかもしれないけど、くねくねもぞもぞしてるだけのヘドロ色のゲルだから、きっと暴れたりしない。

青春と呼んで疑問符をつけられることのない年頃に、誰の目にもわかるような形で何かを成し遂げた経験は尊い。誰にでも訪れる出来事じゃない。(やっぱり羨ましいかも)
その尊い瞬間を間近で応援することができて、さらには製作に関わることまでさせてもらえて、それは本当に貴重なことでうれしいことだ。果報者だ。ぐだぐだずるずるとだけどこの場所にいつづけていてよかった。

今年もまた生まれる、青春の主役たるあなたたちを見届けに、5月は京都へ行くよ gogoルン

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