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西洋医学の野蛮性

昭和十七年六月三十日付の手紙が、大阪市で開業している私の弟子(婦人)から来たのであった。その手紙の原文のまま左に書いてみる。

「前略、一つ面白(おもしろ)いニュースを申し上げます。近日京都より軍医が治療(ちりょう)の見学に来るという話ができております。それはちょうど一ヵ月前、二十七歳の兵隊さんが京都より参りました。戦傷兵です。戦車が折り重なり十四、五人即死、そのとき脊髄(せきずい)を打たれて九死に一生を得て赤十字病院へ入院し、今後一ヵ年間絶対安静を言い渡された者です。首の付け根より脊髄へかけちょうど掌(てのひら)一杯だけくらい熱がありました。それと左手指三本に力が入らず手拭(てぬぐい)もしぼれないのです。それだけですのに脊髄炎(せきずいえん)になったかどうかを試験するのに、脊髄の最下端より漿液(しょうえき)をとり試験されたのです。そのときの痛みと苦しみは大変なもので、頭の中で戦車がガラガラガラッと転回するようなスサマじい音がして痛いの痛くないのあまりの苦しさによして下さいと言ったら、軍医に言下(げんか)に死ぬぞと叱りつけられ、実に苦しい思いをしました。だのに試験の結果は何(なん)ともないとのこと、次に今度は所もあろうに頭蓋骨(ずがいこつ)に錐(きり)で穴を開(あ)けて再び漿液をとり試験するというたのが、私方に来る三日前です。生きた心地(ここち)もなく私方に参りました。当人の父親は戦地にあり大佐です。治療(ちりょう)一回にして半分熱はなくなり、三日目に完全に熱は解消しました。頭の痛みも消えて左手全部小さくなっていて爪さえが伸びなくなっていたのが伸びてきて、以前のごとく右手と同様に力も出るようになりました。一週間でほとんど苦痛は消えました。一ヵ月目元の勤務に立ち直ることができました。再び人間として兵隊の勤務はできないため、兵役免除となりましたので、元の務(つと)めをしたいと申しております。一ヵ年絶対安静の重患が、京都から西宮まで通うて、そして元々通りの体となり、勤務ができるなんて、ただただ不思議でならんと申しております。これを軍医に話しましたのです。軍医が申しますに「知らんぞ、責任は持たんぞ」と、「しかし不思議なことがあるものだな、ほんとに良くなっている。何ともないがどうも変テコだ、わずか一ヵ月くらいで治る病気じゃなかったはずだが、とにかく一度連れて行ってくれ、話を聞かせてもらいたい。承諾(しょうだく)を得てきてくれ」とのことでした。私の考えでは、内出血し、それに発熱したものと思います。それを大層なことをして苦しめたものです。」

右のごとき実例は無数にあるのであるが、これを採りあげたということは、国家のため生命を賭(と)して第一線に活躍した尊い勇士が、そのあまりにも惨(むごたら)しい苦痛を与えられ、しかもその苦痛が無益であり、いまや頭脳にまで穿孔(せんこう)されようとしたという事実に胸を打たれたからである。かくのごとき大苦痛を与えてまで査(しら)べるということは、軍医は決して悪意はないのであるが、まったく西洋医学における診断が幼稚(ようち)であるためと残虐性(ざんぎゃくせい)のためであることが、あまりにも明白である。そうして軍医は、脊髄(せきずい)および脳にまで穿孔して診査(しんさ)しようとしたのであるが、私の弟子なら一分間の診断で脊髄炎の有無(うむ)は判(わか)るのである。しかも、脊髄炎でなかったことは、局所だけの治療(ちりょう)で簡単に全治(ぜんち)したのにみても明らかである。しかるに、治癒(ちゆ)までに一ヵ年を要し、絶対安静でなくてはならないというのであるが一ヵ年後、果たして治癒するや否やすこぶる疑問であろう。

この事実を検討してみるとき、医学における診断の低劣と野蛮的(やばんてき)であることは否めないとともに右のごとき災禍(さいか)を蒙(こうむ)りながら、泣き寝入りに終わらざるをえない不幸なる人々が、いかに多いかを想像するとき、私は天を仰いで長大息(ちょうたいそく)をするのみである。

(「明日の医術」第二篇 昭和十八年十月五日)

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