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食べること=悪。 だった日々。


私が2年生くらいの頃、運動神経がよかった姉が体操教室に通うことになり、当時壊滅的に運動神経が悪かった私は仕方なく、むしろ嫌々体操教室に通い始めた。姉はどんどん成長していき選手コースに引き抜かれて、またもや、しかたなく、おこぼれ的に私も選手コースに通うことになる。私たちは学校が終わるとすぐに家に帰り支度をして母に近所の体操場へ送ってもらい毎日夜21時まで練習。帰宅後すぐに、用意されたご飯食べ、宿題をして、お風呂入って次の日の準備をして就寝。ほぼ毎日練習で、土日は大会や遠征。土曜日は9時から14時まで練習して、帰宅後は近くのスポーツセンターに行きトレーニングしたりスイミングして鍛えた。そんな日々を約10年続け、私は18歳の高校3年生の夏のインターハイで体操人生に幕を閉じた。


青春時代のほぼ全てを体操場で過ごした。

学校の違う子達が、同じ場所に集まり練習に励む日々。中体連などは別々のチームとして大会に出て対戦相手になる。クラブチームで大会に出る時は私たちはチームになる。チームメイトとは家族以上に一緒に長い時間を過ごしたと思う。
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私はとにかく下手くそだった。そしてビビリだった。人一倍の努力をしなきゃ。そう思う気持ちはあるのに、身体が言うことを聞かない。全く上達しない。毎日毎日叱られて外で立っていた。

同じ技を何年も何年も繰り返して、恥ずかしくて仕方なかった。変化できない。前に進めない自分が心底嫌いだった。

来る日も来る日も
"辞めよう。明日絶対辞めるて言おう。"そう思って何年も何年もそんな思いで今日を過ごし、何も言えずにまた何も変わらない明日を迎えることになるのだ。

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"上手く行かないのは体重が増えるからだ。

そして、

痩せたらもっと身体が軽くなって上手くなるかもしれない。"
"食べる物を毎回記録してコントロールしよう。栄養計算をして体重が増えないようにしよう"

中学生頃になると身体がだんだん大人になり始めてきてそんな風に思うようになる。

ホルモンバランスが変わりはじめて思うように身体が動かない年齢になってくると、『決めたら絶対やらなきゃいけない』みたいな頑固さというか生真面目さが子供の頃激しかった私は、毎日食べた物を記録し、栄養の本を購入して栄養、カロリー計算をして1日1,500カロリー以下で過ごす事を目標にして過ごした。食べる物を厳しく管理し始めたのだ。当時の私は自分を追い込む天才だったと思う。
"食べなきゃ痩せる。" "汗かけば痩せる。"  たったそれだけのことじゃないか。こんな簡単なこと出来ないわけないだろう。努力しろひかり!みたいな。そんな風に追い込みながら、練習が終わってヘトヘトなのに大して食べずにサウナスーツをきて汗だくになりながら家の周りをランニング。母に頼んで和食中心の食事にしてもらい、お米は1食80グラムまで。おかずも全てグラムを計って何が入っているか母に聞き出してから食べていた。それでも体重は少しづつ増える。成長しているから当たり前だ。そうなんだけど、その当たり前をいよいよ受け入れられなくなっていて、それは、摂食障害の始まりを迎え始めているサインだ。21時に練習を終えてから、夜遅くに食事を摂ることに抵抗感や嫌悪感が芽生え、カロリーメイトや0カロリーの食べ物を食べるようになる。体重が思うように減らないとコーラックを大量に飲んで無理やり便を出し、体重計に乗って少しでも減っていたら安堵していた。母が野菜メインで手作りのご飯を用意してくれているのに『太るからいらない。』『油入ってるから食べない。』など言って食べない日も多かった。そんな食生活をしていれば、怪我も増える。もう何ヶ所も、骨折やヒビが入り、体調も崩す。内科、外科と、病院通いの日々。学校は休んでも体操には行く。チームに迷惑かけたくない。サボったと思われなくない。弱いと思われたくない。そんな気持ちだったかな。高校生になると体重への執着がエスカレート。人体のメカニズムにも興味があり、栄養学や解剖学を本を買い勉強していた。体操を続けていた姉は別の強豪高に入学して練習に励んでいたが彼女もまた過度な食事制限でおかしくなっていたと思う。そんな中、姉は練習中に大怪我をして手術をすることに。彼女の高校生活のほとんどは入院とリハビリ生活となった。私たちは、痩せたい。が強すぎた。周りと比較しすぎた。お互いに心と身体のバランスを崩していたと思う。常に苛立ち、顔を合わせれば毒を吐き喧嘩してたな。(今はとても仲良しですよ)

私は、10年間も、体操をしていたにも関わらず体操をしていた頃の『感情』をあまり覚えていない。小学生から中学生まではとにかく恥ずかしくて辞めたくて、でも逃げたくなくて。みたいな感じたったとおもう。高校ではキャプテンとしての重圧をかかえたり、チームメイトと上手くいかなかったり、ますます拒食過食を繰り返し情緒がおかしくなったり。とにかく多分辛かったんだとおもう。だから、"今日を忘れる"という選択をして生きてたんだとおもう。でも、高校生の頃途中で新しいコーチがきて、『お前はまだ上手くなれる。自分に合うやりかたを知らないだけだ。』そう言ってもらえたその一言から私は変われた。相変わらず食事は恐怖だったから身体はボロボロで練習は益々ハードてもうめちゃくちゃに辛かったけど【わたしはこれ以上できないくらい努力した】そう思える3年間を過ごせた。3年生のインターハイの2週間前。仰向けにストレッチしていたら、一緒に近くで練習していた小学生が遊んでいて、マットのおもりにしていた木の棒を振り回していていてそれが『スッ』っとその子の手から抜けたようで、私の顔面にすっ飛んできて突き刺さった。"あ、鼻とれた"。 そのくらいの衝撃があってむくっと起き上がった瞬間。目、鼻、口から大量の血が出て止まらない。緊急で病院に運ばれて、鼻を骨折してたけど私たちのチームは私を入れて3人だけ。3人が大会に出場できる最低ラインの人数だったので私が出ない選択肢は無い。鼻にガーゼ詰め込んで痛み止めのんで大会を迎えた。事故直後の顔は、もうそれはそれはひどい顔だった。

そうして、決して万全ではなかったけど自分を褒めてあげられる状態で最後の試合を迎えることができた。予選敗退。幕を閉じた。
私はたちは笑顔で終えることができた。辞めなくてよかったと。恥ずかしい。そう思いながらでも、とりあえずでも、泣きながら練習に行き続けた自分自身に。そして、『行きなさい』とも『辞めてもいいよ』とも、何も言わずに私に決定権を与え続けてくれた母に全力でありがとうを伝えた。試合を終えロッカールームでシャワーを浴びて鏡に写った自分に向かってやっと言えた『よく頑張ったじゃん。』って。

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最後のコーチの言葉は"お守りの言葉

『ひかりは大器晩成型だ。努力は報われたり報われなかったりするけどその時期はいつかわからない。何を持って報われたと思うかも自分次第だ。今の努力は必ず未来につながる。時期は来る。お前はこれからだ。大丈夫。』

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【日曜日のケーキ】

なかなか甘い物を食べる事ができなかった(勝手に自分で禁じていた)私は、マイルールを作っていた。

⭐︎日曜日はケーキ屋さんにいって好きなケーキを一つ食べていい。

近くのケーキ屋さんに行って、ひとつだけ。

頑張ったご褒美のケーキが、本当に本当に美味しくて。

この感覚は今もなお変わらないけど、自分の胃のキャパシティはそう大きくないから、よくわからない物に自分の胃を占領されたくない。【食べたい!】そう心底思う物を食べて身体に溜め込みたい。

だから、それが"身体にいいか悪いか。"の判断基準じゃなくて、『私の体内に居続けて嫌な気持ちにならないかどうか』が基準。

胃の中も部屋と同じだ思うんだよな。

部屋の中に自分の好きでない家具があったり
、よくわからない物が転がってると嫌な気持ちになる人は割といると思う。だけど、どうでもいいと思って食べた物、なんとなく食べた物が胃の中に居座り続ける事をに抵抗を感じる人は少ない気がする。

そう思った方がいいよ!とかの話じゃ決してないんだけど、私は、『食べたい!』とちゃんと感情を動かした物を食べたいな。それがカップラーメンでもなんでもよくて。心躍る感情が大切だって思ってる。

それはなぜか、
【食べる事=悪】だったから。

過食が辞められたのは31歳。
再婚した事をきっかけに病院にしっかり通い、『病気を治す』。これは病気だ。と自分で認識する事ができて真正面から向き合えたから。なんとなくではもう治せないんだってわかったから。そしてなにより、これ以上自分のことを嫌いになりたくなかったから。

食べることを楽しみたい。食べることは悪じゃなくて【愉】にしたい。そう強く思う事ができて、もう薬を飲む事なく過食嘔吐もせずに食べたい物を食べて過ごせている。

これは、私の意志の強さというより、周りの人たちのおかげでしか無い。特に旦那さん。辛抱強く、無関心なふりをしてくれていた。心配してくれていることは痛いほどわかっていた。伝わっていた。だから無関心の"ふり"は優しさだ。

【食事】は、本当に私を苦しめた。
そして私にたくさんの学びを与えてくれた。

辛かったからこそ、きちんと向き合いたくて大学は管理栄養学科に通い、本当に学びたかった事を学ぶことができた。

今ではshironeriで食事を提供する側になっている。"食べる事"を今では幸せのツールにする事ができている。

色々なことを、乗り越えたんじゃない。
乗り越えることなんかできなかった。

だけど、
色々なことを、一つ一つ脇に抱えて一緒に歩んだんだと思ってる。

そしていま、いっぱい抱えたその荷物を少しづつ下ろしていく人生を歩んでいる気がする。

食に翻弄され続けてきた人生だから、もうここまできたら一生のお友達にしようと思う。

私なりの『愉しい食事=生きること』を創り上げていきたい。それはレシピだけじゃなくて、空間、考え、学び、人間性、全てを巻き込んだ壮大な話。


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