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【日本国記】 第二章 11 長岡京遷都 2 弟国宮・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 

11 長岡京遷都 2 弟国宮   

 長岡は山城国(山背国)であり和気清麻呂が山城守であったためそこが遷都の地となった。「初めは平安京から」でも述べたように、光仁天皇の即位に関わった藤原氏と和気清麻呂によって遷都の地は選ばれたといわれる。平城京からの遷都ではあるが、それよりもずっと以前にここが都であった時代があった。518年の継体天皇による筒城宮からの弟国宮遷都によってである。それ以前の筒城宮は今の京田辺市にあった。

 継体天皇は507年樟葉宮で即位したといわれ、511年には筒城宮に遷都し、さらに継体12年(518年)になって弟国宮に遷都し、その後の継体20年(526年)に今の奈良県桜井市の磐余玉穂宮に遷都したといわれる。

 したがって、この地は2度都となっていたことになる。そして弟国宮は”おとくにのみや”と読まれるが、”弟国”は”乙訓”とも書かれる。”弟国”とは”弟の国”との意味にとれる。ではいったい誰の弟の地であったのか?

 山城国は山を背にしていることからか”山背国”とも書かれる。”山城”は”やまじろ”ではなく“やましろ”であるから、”城”を意味するのではなく”山”を意味するのである。“山”とは祇園祭の“山”でもあり、ヤマトの”ヤマ”でもある。このときの”ヤマト”は後の大和ではなく”倭”である。“倭”は“ワ”ではあるがそれは音読みであって訓読みは“ヤマト”である。“ヤマト”は“邪馬臺”でもある。つまり、山城は“ヤマ・シロ”であって“邪馬代”であった。

 この地は賀茂の地でもある。後に秦氏がやってはきたが、もともとは賀茂の地であった。出雲の”神の地”である。“神の地”は“かものち”と読む。つまり、”神”は”賀茂”でもあり、”神川”は“賀茂川”でもある。

 賀茂の地とは鴨の地とも書かれ、賀茂川は鴨川ともなる。賀茂とは賀茂大神のことであり、賀茂別雷大神を指す。上賀茂神社の御祭神である。普通に考えれば、和気清麻呂が鐸石別命の子孫であることから、和気清麻呂は鐸石別清麻呂のはず。鐸石別とは”ぬてしわけ”と読み、その母が垂仁天皇の妃である”渟葉田瓊入媛”であったことから名付けられた。古事記では”沼羽田之入毘賣”と書かれた。つまり、もとは”沼秦之入毘賣”であった。そして”鐸石別”は”沼帯別”とも書かれ、これらは明らかに”沼秦別”を意味する。

 母の名から分かれたときに使う“別”は母の名が”沼秦”つまり”渟秦”から別れた氏族であることを指す。和気清麻呂は”沼羽田別清麻呂”であった。そう考えれば、賀茂別雷大神は”賀茂から別れた雷大神”であることになるが、そこに謎がある。

 賀茂別雷大神の母は賀茂氏である。賀茂建角身命の娘玉依姫であるから賀茂氏に違いない。その意味では賀茂別は母方の名を受け継ぐ名ではある。しかし本当はそうではなかった。賀茂別雷大神は”誰かはわからない神”と玉依姫の子であった。つまり、賀茂別雷大神は“誰かわからない神の子”であり、“誰かわからない神から別れた神”であった。賀茂別雷大神は天照大神と並ぶ大神である。上賀茂神社には二つの立砂がある。一つは賀茂別雷大神である。もうひとつは”誰かわからない神”とも神武天皇ともいわれる。そこに謎がある。

 ”弟国”は“誰かわからない神”か神武天皇の弟の国であった。

 つづく


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