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アリの2割は働かない=ニートなのでは?と考えてみた

アリの生態については、興味深い研究結果が報告されている。なんと、アリの中には働かない個体が2割も存在することが判明した。これは一体どういうことなのだろうか?

本記事では、2割のアリが働かない理由や、ニートとの共通点について考察してみた。

アリの2割は働かない

アリの生態を調査してみると、以下の3種類に分けられるという。

  • よく働くアリ:2割

  • 働くアリ:6割

  • 働かないアリ:2割

もし仮によく働くアリがすべて死滅しても、やはりまた全体の2割がよく働くアリとして活動し始める

逆もまた然りで、2:6:2のバランスが崩れることはないらしい。この法則はどこの巣でも共通している。

アリには感情がないだろうけど、もし僕がアリだったら、迷わず働かないアリになりたい。もし働きアリに分類されたら、きっと働かないアリを蔑んでしまうかもしれない。

働かないアリはなぜ存在するか

ただサボっているように見える働かないアリたちにも、実は役割があるという。

彼らは、緊急時に招集される存在なのである。

働きアリたちは、働きすぎるあまり体力を失ったり、外にいる間に死んでしまうこともある。

タイミング悪く巣が滅ぶような災害が来たり、外にいる集団が死滅した時、働かないアリたちはついに動き始める。

働きアリたちがピンチの時、働かないアリたちが代わって働けるというわけだ。

もしすべてのアリが働いていたら、ピンチが訪れた時に交代できるアリはいなくなる。巣を維持するためには、働かないアリたちの存在が欠かせないのだ。

働かない"ニート"と共通する可能性

さて、人間の世界にも同じく働かないアリたちがいる。

世間一般で、ニートと呼ばれる存在だ。

ニートは社会人全体の2%程度と言われており、2割にはほど遠いわけだが、どの時代にもほぼ一定の割合で存在する。

つまり、ニートと働かないアリたちに共通する部分があるのではないか。

どの時代でも、どの国においても、ほぼ一定の割合で存在する。もし彼らが人間社会という巣に必要な存在だとしたら、同じような役割を持っていると考えても良いのではないか。

被災地のボランティアに出向くニート

災害が起こった時、大抵の場合はボランティアを募る。たとえ災害が起こらなくても、ボランティアというのは常にどこかで行われているものだ。

ボランティアは親切心あふれる人たちが参加すると思われているが、実は意外にもニートが参加していることが多いらしい。

ニートたちは普段から部屋に引きこもっているため、「自分は社会にとって無価値なのだ」と自責の念に駆られることが多い。「何かしなければいけないのに、仕事は上手くできない」という悩みを抱えているのだ。

ボランティアは、そんなニートたちにとって絶好の機会である。

報酬が発生しているわけではないので、仕事ができるかどうかは求められない。たとえできることが少なかったとしても、居てくれるだけで有難い存在だ。

被災者やボランティアの恩恵を受けた人たちからも「ありがとう、
助かった」などの感謝を述べられる。

社会貢献している実感が得られ、そもそもニートなのでとくに対価が欲しいとも思わない。

働かないアリたちと同じく、彼らは緊急時に招集される存在なのだ。

働くアリ(人)はボランティアに行く暇がない

2%がニートというなら、残りほとんどの人間は働いているということだ。

人間社会における働きアリたちである。

さて、彼らは常日頃から出社し、社会のために全力を尽くしている。常に疲労を抱えていたり、もはや働く気力や体力を失いかけている人も多いだろう。

もちろん人間社会を維持するためには欠かせない存在なのだが、そんな疲労困憊の働きアリたちは、いざという時に動ける余力がない。

「ボランティアに行ってみないか」と誘われても、よほど心に余裕がある人でなければ、「そんな暇はない」と言って断るだろう。

なんだかアリの世界と似ているではないか。

もしすべての人間が常に全力で働いていたら、いざという時に頼れる人はほとんどいなくなってしまう。

ニートは世界にとって必要なのかもしれない

ここまでの話をまとめると、次のようになる。

  • 働くアリ(人)たち:社会を維持するために必要

  • 働かないアリ(人)たち:社会がピンチになった時に必要

つまり、ニートは世界にとって必要な存在なのかもしれないということだ。

社会でさんざん馬鹿にされているニートたちだが、ひょっとしたら馬鹿にできる存在ではないかもしれない。

ニートになるのも悪くない

僕は別にニートではないし、ニートになる予定も今のところはない。

しかし、ニートになることが必ずしも悪いことだとは思わない。

思いがけず社会貢献している可能性があるし、そもそも精神的・体質的に働けない人たちもいるだろう。

働けるかどうかは、遺伝や育った環境によっても左右されそうだ。

そんな人たちを真っ向から否定するのではなく、必要な存在だと考えてみれば、もう少し寛容になれるではないだろうか。ただし、周りに過度な迷惑をかけないでいてくれるという条件付きで。

自分の中にも働かないアリを住ませる

大半の人は、よく働くアリ(人)か、働くアリ(人)だ。

そんな僕たちにも、"働かない"という選択肢を持つことが重要なのではないだろうか。

人生に、ニート的な余暇を設ける必要があるかもしれない。

例えば、

  • 仕事を抱えすぎない

  • 休日出社はしない

  • 残業はしない

  • 会社で必要とされすぎる存在にはならない

  • 週休3日にする

人は片手が空いていないと、何も受け入れることはできない。常に両手が埋まった状態では、チャンスも何もかも流れ去っていくのだ。

桃太郎のおばあさんは桃を拾う暇があった。でももしおばあさんが洗濯で激務だったとしたら、きっと桃を無視していただろう。もし気になっていたとしても、両手が塞がっていては拾うことができない。

僕たちは仕事に追い込まれるあまり、何か大事なものを拾い損ねているのではないだろうか。

働かないアリが2割いるように、僕たちの人生にも2割ほどの働かないポジションが必要だ。

まとめ

いかがだっただろうか。

僕たちは「働かないこと=悪」というバイアスに囚われているかもしれない。

そのバイアスは、働かない人たちを蔑むばかりか、働かない自分を否定しているのではないだろうか。

僕たちの人生にも、きっと働かない自分が必要だ。片手が空いているからこそ、舞い込んでくるチャンスもある。

目先の利益ばかりを追い求めて無理をしては、人生を滅ぼす可能性もある。

「今よりも2割だけ、働かないという選択を持ってみても良いのではないか」

これを記事の結論として、今回はここまでにしようと思う。




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