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Pleasure 〜人生の快楽〜


B‘zとの出会い

1988年9月21日、当時TMネットワークや浜田麻里のサポートギタリスト等を中心に活動していた松本孝弘と横浜国立大学卒業後ミュージシャンを目指していた稲葉浩志のふた…はい、長くなるので彼らのプロフィール等はwikipediaをご覧ください。

そんな彼らとの出会いは1990年、当時中1のときでした。
当時は木曜スペシャルとか2時間枠のスペシャル番組が毎週ありまして、そのなかに水曜スーパーキャストという番組がありました。そのテーマ曲として使われていた彼らの4thシングル、『BE THERE』を聴いた瞬間、タカオ少年はロックの沼に足を踏み入れたのでした。

ハコ天、イカ天を頂点にバンドブーム真っ只中の当時、ギターとボーカル以外はすべて打ち込みという彼らの音楽は異質であり、今のようなハードロック路線ではなくダンサブルな曲調であったこともあり賛否両論という受け止められ方でした。今では信じられませんけど、あんなチャラチャラして女にキャーキャー言われてるバンド、男が聞くのは恥ずかしいみたいな空気が確かにあったんですよ。

その後LADYNAVIGATIONやALONEといったヒット曲を連発したこともあり、セールス的に好きなことがやれる立場を手に入れた彼らは自分たちのルーツであるハードロックへと傾倒していきます。
今もライブでの定番曲であるBlowin‘やZEROといった代表曲が生まれたのは1992年、中3でしたからそれはもう、洗脳されますよね。稲葉さんのステージ衣装としておなじみの短パンもこの頃からです。あれはガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズのパクリだっていう批判には、そのとおりだよとお答えしておきます。トドメはロック色全開のアルバム、RUNですね。これでもう完全に彼らの虜でした。



そんなタカオ少年の運命を決定づけたのは、1993年7月31日と8月1日に静岡県は浜名湖畔、渚園で行われた彼らの初の野外ライブ、Pleasure'93 JAP THE RIPPERでした。
まだファンクラブにも入っていなかった当時、ライブのチケットなんて手に入らなかったところに5万人ライブの告知が新聞の片隅に小さく載ったんです。ホントに小さな記事でした。
これだ!と思い立ったタカオ少年は早速友達を誘い、チケット抽選のハガキを送ったのです。電話やネットじゃないですよ、ハガキです。時代ですね…。
当選の連絡が来たときはそれはもう天にも昇る心地でした。後に届いたカード型の入場パスは今でも宝物として自室のB‘zコーナーに飾ってあります。



8月1日、友達と二人で新幹線とローカル線を乗り継ぎ、たどり着いた弁天島駅。ホームから見える景色に愕然としました。駅から会場のある弁天島を繋ぐ橋も数キロの一本道も人、人、人…
これはとんでもないところに来たと思いました。会場まで数時間かかったと思います。
そしてたどり着いた広大すぎる敷地。ホントにここでコンサートやるの!?祭りじゃなくて!?もう、田舎モン丸出し。ステージなんて遥か彼方でしたから。
これ、ホントに見えるの?大丈夫?なんて心配をよそに進むカウントダウン。1分を切ると場内の興奮は最高潮。そしてステージ脇で爆発…と、聞こえてくるのは聴いたこともないような轟音。耳をつんざくギター。鳥肌ブワーッ

あっという間の3時間でした。ライブの模様は彼らのドキュメント作品、LIVE RIPPERをご覧ください。タカオ少年も一瞬映っております。

帰りは鈍行、東海道本線夜行列車。席に座りきれない若者たちが通路まで溢れた車内は熱気ムンムンだし薄着のキレイなお姉さんたちの胸元が気になるし…で新横浜までまったく眠れなかったのを覚えています。


こうしてB‘zと出会って32年、タカオ少年はその間にいくつかの恋をし、夢に破れ、家業を継ぎ、結婚して娘も生まれ、いつしかちょっと腹の出たおっさんになりました。
そのひとつひとつの場面場面で鳴り続けた彼らの楽曲は、これから先もタカオ少年の人生に寄り添っていくのでしょう。



よくまあここまで俺たち来たもんだなと 少し笑いながらオマエ煙草ふかしてる なにもないところから頼りなくはじまって 数え切れない喜怒哀楽を共にすれば
時の流れは妙におかしなもので 血よりも濃いものを作ることがあるね

15年後の2008年9月21日、日産スタジアム。彼らの20周年ライブ千秋楽の光景、ひとつひとつのMCは一生の宝物です。

というわけで、32年の全てをここに書くととても8000字では済まなくなるので今日はこのへんで。
https://youtu.be/_PPV9bYA_nk


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