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ガケ書房は終わるだろうか。(2015年作)


 山下とまみえた、とある対談企画にて。ガケ書房命名者について議論の末
「三島出案の”ガケ"、山下出案の”書房"を採り合わせた名が、”ガケ書房”」
という見解で合意した。それまで互いに、名付け親は自分だと言い張ってきたのだっだ。
 1994年、自主写真誌の製作チーム名として名付けたのがガケ書房であった。製作した誌名の方はハイキーン。3人体制で3年間で3号まで出版した。二十代前半のことだ。
 ハイキーン4号目の発刊を目指しながら、ガケ書房メンバーは各々に人生の波をかぶり、足並みそろわず未刊。三十代に入っていた。私は写真撮影と肩書きした名刺を懐に駆け出していた。山下は本屋をやると言い出していた。
「本屋の屋号はやっぱりガケ書房でいこうと思うんやけど」
「おう、いっとけいっとけ」
 ハイキーン制作が休止し、数年間ポケットの中につっこまれたままになっていたガケ書房は、2004年、店となり屋号となり比叡の麓に掲げられた。
 山下の店とはいえ他人事ではない。DMの制作と配布、H.P.の開設、初めてながらやってみた。初荷の棚出し、レジ打ちも手伝った。山下急病で、スタッフと共に店長不在の営業と、店内ライヴを切り盛りした半月間もあった。長谷川健一ボックスセット徹夜製作、店で迎えた朝の空も忘れられない。
 山下持ち前の先見の明と、ゆるさとこだわりの絶妙な応酬から生まれるアイディアによって、しだいにガケ書房とゆう場は拓け、名は広がっていった。そんな中いつしか私は京都を離れ、リアルタイムのガケ状況に疎くなっていった。意地になって続けていたH.P.管理も開業6年後、降りさせてくれと申し出た。その後のガケ書房のことを、正直私はあまり知らない。めまぐるしい数年が転がっていった。

 「ガケ書房は一生続けよう」と山下と話したことを記憶している。開業よりもっと前、ハイキーン第4号のアイディアが立ち消えし続けていた二十代後半のことだ。それをどんな気分で話したのか、今となっては正確に思い出せはしない。しかしその言葉はよく覚えている。屋号の役を解かれたガケ書房とゆう響きを、再びポケットに丸め込んで、私や彼はどこへ流れて行くのだろうか。ガケ書房は終わるだろうか。

追記:ガケ書房開業に合わせて製作したハイキーン第4号が、当初店頭などで無料配布されていたことはあまり知られていない。

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