野良猫は海へ 1999年作


第一回

 原チャリは海の匂いの中へ突っ込んだ。それは顔面と鼻の穴から伝わってきた。橋の上には、今日も暑くて湿っぽくて潮の匂いが流れてた。美浜区真砂の団地を抜け花見川に架かる橋、河口から約二キロ地点にあるその橋にさしかかると、いつもそうやって海をすぐそこに感じることができるのだ。スクーターは友人からもらった十年落ちの中古だけれど、実に好調だ。オレは突っ走る。フルスロットルだ。でもやっぱり時速六〇キロだ。
 川向こうには夏草の茂ったダダッ広い更地が広がり、その真ん中に高層ビルの数本が生えてる。幕張メッセ界隈のホテル街だ。その中では比較的低い、最上21階建てのホテルがバイト勤務先だ。従業員更衣室は十階にあって東京湾が見渡せる。見る度に違うこの景色を眺めるのがバイト通い唯一の楽しみなんだ。
 大気の澄んだ日には、水平線近くにアクアラインがまっすぐと輝くのが見える。荒れた日には小船が姿を消し、人工海岸に造られた突堤に白い波しぶきが打ちつけるのよくがわる。ある朝には沿岸がエメラルドグリーンに染まってるのを見てぎょっとしたね。青潮だよ。一見美しいトロピカルカラーの水は酸欠になってる、って本で読んだ。そこに棲む生き物には死の水さ。
 夜には神奈川県側から千葉県側まで、ぐるっと光の粒子が並ぶ。湾口部だけは明かりがなく、その不気味に黒々とした大海への出口に見とれたりもした。
 こうした日々様々な表情を見せる内海の風景に、オレは惹かれてた。更衣室で、似合わない蝶ネクタイなんぞ着けたり外したりしながら、羽目殺しのガラスの向こうに広がる東京湾をいつも眺めてたんだな。そうすると、時折古い記憶の風景が思い出される。
 それは幼い頃見た谷津遊園裏手の風景だ。白い貝殻が散らばる泥っとした水辺を前にして、幼いオレはそこが何なのか認識できなかった。
「ここは海なんだよ。東京湾だよ」
とオレの手をひいた親に教えられると、脳の新たなページに「海・東京湾」というタイトルで目の前の景色を描き込んだ。
 もう十年も前、高校生の時、二冊の東京湾に関する本、『全・東京湾』(情報センター出版局)と『誰も知らない東京湾』(農文協)を手にしたのは、この幼い記憶のせいに違いない。
 一冊目の『全・東京湾』の著者中村征夫は、フリーカメラマンになると同時に東京湾をテーマに据えて取材を始め、以来十年間東京湾に潜り続けたという。オレはこの本で初めて、船橋に漁師がいるというのを知った。谷津遊園裏のような干潟が生き物にとって重要で、昔から好漁場だった三番瀬という干潟が船橋沖に残ってることを知った。そんな身近な場所に漁師の世界があるなんて、東京湾が立派な漁場だなんて……、衝撃的だった。
 もう一冊の『誰も知らない東京湾』(一柳洋/著)でも「死の海・東京湾」という概念を壊された。この本でも、そこにたくさんの旨い魚達が棲み、それを捕る漁師達がいることが書かれていた。さらにこの本は青潮やら赤潮だのが、どんな影響があり、どうやって起こるのか、といったことも教えてくれた。あの東京湾がダイナミックで繊細な大自然であることを知り、重ねて衝撃を受けてしまったのだった。
 この二冊を読んだ後、東京湾という存在が意識上にぐいぐい浮上し始めた。授業をさぼって、自転車に乗っかって花見川に沿って下り、一時間ほどかけて検見川の浜まで行ったりした。海辺に出られる場所を探し、たびたび自転車に乗っかって湾岸をたどった。ハゼ釣りもした。仲間とともに、三泊四日の東京湾一周自転車野営旅に出たりもした。やたらと自転車ばかり出てくるが、当時は移動道具といえば自転車くらいしかなかったので、自転車ばかり乗ってたんだ。
 オレは面倒くさいが仕方なく髪をキッチリ整えた。鏡越しに水平線が見える。軽く溜息をもらす。更衣室を後にする。エレベーターの1Fを押す。持ち場は一階のレストラン。エレベーターを待ちながら、またもちょいと溜息をつく。活動を初めて五ヶ月が過ぎた連続イヴェント、『海へ行こう!』の行き先を見失ってたのであった。本当にやりたいのは何だったっけ? 面白がれることはどんなんだっけ? ……東京湾ともっと突っ込んで付き合ってみたい、という漠然とした思いはある。でも後はグルグルとした気分に満たされるばかりだ。
 考え込んでも始まらねぇ、っつーのは正しいかもしれない。一見関係ない方向へ重心を振れるなら、アタマもカラダも再始動するかもしれない……。オレはエレベーターで降下しながら一つひらめき、心に決めた。
「生活を変えよう。仕事を辞めよう」
 アルバイトとはいえ、安定した会社勤めを離れる。今日と、せいぜい明日のことに気をもむ生活に、わざとらしくとも傾いてみる。そうすれば、本当にやりたいことが、行きたいところが見えてくるかもな。やるべきこと、なんてことさえも見えてしまうかもな。
 これが飛躍のアイディアなのか、ヤケの思いつきなのか、オレ自身もわからないまま、ただ決心だけが確かにあった。いつもの職場が違って見えた。

第二回

「あんた達は何を捕りに来たの? あ、カニ? カニもおいしいよぉ~。身はないけどさぁ、みそ汁に入れるといいダシ出るよぉ」
違う、違うぜ、おばちゃん。食べるんじゃないんだよね。飼うんだよね。
「ここらにね、エビもいるよ。エビもおいしいから捕ってけばー?」
おばちゃんは一方的にそう言うと、エビのいそうな堤防の陰を熱心に網で探り始めた。
 オレは船橋海浜公園に来てる。浜に棲むカニやらエビやらを捕まえるためにだ。水槽で彼等を飼うことになったのは、千葉大の延藤研究室の学生からの話が発端だった。
 連続イヴェント『海へ行こう!』の常設展として、千葉市内のレストラン「JAM」店内の壁を借りて行った『海の風景展』で延藤氏の写真作品を展示させてもらったことがあり、延藤研究室の学生とも知り合うことができた。今回は東京・青山にある「クレヨンハウス」という、絵本を始め子どもに関わる出版事業などをやってる会社で、延藤先生が三番瀬の写真展を行うにあたり、「何か面白い写真展の演出方法はないだろか」と学生から相談があったのだ。オレは生きてる水棲生物を展示しよう、と提案した。会場はクレヨンハウスの社屋と店舗を兼ねた場所で、子ども連れの客も多いっていう。なら生き物いたら子供らも面白がれるだろう、って発想になったんだ。
 ここ船橋海浜公園の前に広がる海は東京湾なわけだけど、海域の名前で言うと三番瀬にあたる。そうそう、埋め立て問題で時折ニュースに出てくるあの場所。三番瀬がどういう場所なのか、とりあえず船橋海浜公園まで来れば見渡すことができる。けどまあ、素晴らしい眺めってわけではないね。視界の両脇はコンクリの護岸で挟まれ工場や住宅地が並んでる。海浜公園のすぐ隣もスクラップ工場の屑鉄がうずたかく山になってるのが見えてて、何だかやるせない。干潮になると現れる黒々とした褐色の干潟も切ない風景である。こんなうすら寂しい場所を埋めたところで、なんの問題があるのだろうというような風情なのだ。
 ところがこの干潟の海が、実は実はおいしい魚がたくさん棲むためには欠かせない場所なのだという。まず目で見える浜の部分だけが三番瀬なのではない。沖合三キロほど先までの、水深〇~三メートルほどの海域を指す。このような浅瀬は小さな生き物達の生活に適してる。波で水がよくかき混ぜられ酸素が十分に溶け込むこと、海底に光が届くから水草がよく茂り幼魚の隠れ家になること、川から流れ込むや土砂が堆積し生物に必要なミネラルを供給していること、などなどどれも生き物が賑やかに暮らすには欠かせない効果を生み出している。見た目の判断は何につけ浅はかな場合が多い。
 干潮に合わせてやって来たから、浜は広々と陸化していた。一見静かな風景だけど、よく見ると水の引いた泥砂に、無数のヤドカリやカニ達が歩いている。潮溜まりを突っ切って歩けば、小魚が砂煙を上げて逃げまどうのも見える。しかしどれもいまいち「小物」過ぎるな。展示するには地味すぎる。オレ達は海に突き出した突堤の方へ行ってみた。波消し岩を組み合わせて作られた突堤なら、もう少しパッとした奴らが潜んでいるかもしれん。そうしてエビ取りのおばちゃんに声をかけられたのだった。
 今日は虫取りやら釣り好きの友人に手伝いに来てもらってるんだが、連中オレより熱心にそこらを物色してる。
「何捕ってるんですか?」
今度は子連れのおかあさんに、仲間の一人が話しかけられている。
「…カニです」
友人はちょっと目線を上げただけで答えると、岩の隙間をぐーっとのぞき込んでいる。ちょうど岩の間に大物が逃げ込んだのを見たらしい。タモの柄を突っ込んでほじくり出そうとしてる。
「カニ捕ってどうするんですか?」
おかあさんも興味を引かれたらしくちょっと身を乗り出した。
「いや…。ただ捕ってるだけ…」
彼はぶっきらぼうに答えた。完全に没頭してる。誘い甲斐のある奴だなぁ。オレは捕ることより、仲間が夢中になってるのを眺めてる方が楽しくなってきた。そして眺めながら思った。
「オレはこんなに夢中になれることがあるだろうか」
その先はまたグルグルとした気分があるばかりだった。「生活を変えよう。仕事を辞めよう」と決心したものの、何をどうしようかといえば、心はあてどなく揺れるばかりなのであった。

第三回

 『野良猫は海へ』、先月休んで今号で第三回目。 書き始めて四ヶ月目。毎回うだつの上がらない話が続いて、あんたも嫌気がさしてるかもな。書いてるオレも気が滅入る一方だってんだ。
 九月の半ば、オレは写真家活動も連続イヴェント『海へ行こう!』の企画も、行き詰まったトコでこの連載を始めた。自分の中の何かを変えなきゃならんと感じてた。その挑戦を『ねばぎば』紙面を借りてさらけ出そうと思って書き始めた。何ができるか、起こるか分からんかったけれど、個人的で些細な闘いをおもしろおかしく書いてやろうと思ってたんだ。ところがよ、ちっとも「おもしろおかしく」なってきそうな気配がないんだな。バイオリズムは下降の一途をたどってる。一体どこまで行くんだろな、こんなふうに「気分がグルグル」したままで。
 そんななか旅の機会に恵まれた。およそひと月ニューヨークに行くことになったんだ。行って何をしようというわけじゃない。とにかくどんなところか見てみよう、くらいの意識なんだけどな。
 ニューヨークってどんな街だろうか。これまで雑誌やテレビで見てきた印象では、経済を主導する世界の中心、お洒落で洗練され熱いアートの発信地、ファンキーでクレイジイなヤンキーとニガーがウジャウジャ、人々の熱気と犯罪が入り交じり…、とかなんとかそんなところだろうか。
 ところがよ、これがそんなイメージとはずいぶん違った。静かな街だな、と思った。都会風の冷たさが漂って、他人を警戒するような目つき、押し黙った表情。そして服装は黒を基調にした人が多い。
 確かに皆、声はデカイ。飯を食うトコ、酒を飲むトコに行けば、何をそんなにしゃべることがあるのかってほど、延々デケエ声で話しまくってる。
 それからまた景気もいいようだ。クリスマス商戦が始まってい、商業地域は購買意欲みなぎる人々でごった返してる。とくにデパートは大喧噪だ。商品は山積みされ、両手にデケエ買い物袋をぶら下げた老若男女が巡り歩く。ジイもバアも取っ手が伸び切れそうなくらいの袋をもって歩きまわる。
 しかしそんな熱気は感動にはつながらない。浮き世の空騒ぎってトコか? 旅から帰って「ニューヨークはどうだったか」と聞かれ、オレは答えていた。「たいしたことなかった」。
 「たいしたことない」、それは正直な感想だ。といってもそれは本質じゃーない。ニューヨークの街が本当に「たいしたことない」かといえば違うだろな。旅は自分の姿を映し出す。「たいしたことない」のは実はきっとオレの方なのだ。飛行機に押し込められて十数時間も海の上をブッ飛んでまでしてもなお感動を見つけられないオレがいる、そっちの方がよっぽど本質だろな。
 そんなオレだが、一つ心にしみる風景に望むことができたんだ実は。それは回転木馬。セントラルパークの回転木馬だ。アメリカの小説家サリンジャーって人が書いた「ライ麦畑でつかまえて」にこの木馬は出てくる。オレはそのシーンが好きで、いつかニューヨークに行くことがあったら見に行きたい、とずっと思ってた。
 それは屋根付きの古い古い木馬で、親に連れられて小さな子供達がいっぱい集まって賑わってた。まだ「赤ちゃん」という小さな小さな子も親御さんに抱かれて一緒に乗ってるんだな。音楽と共に木馬は回転するんだけど、その音楽もとても浸みる。ヨーロッパとかにある、街頭で手回しで聴かせるオルゴール式オルガン? ああいう音色の音楽が流れる。これが心地いい。こぢんまりしてて、けれど華があって、ずっと大切にされてるオモチャ、といった雰囲気だ。あたりは紅葉の木々を透かした日が射し込んでてね。
 十一月の終わりに帰ると、運良く十二月アタマからの時給仕事に就くことができ、すんなり日常生活を再開できた。オレはまた無性にあの小説が読みたくなり本屋に立った。「ライ麦畑でつかまえて」(S・D・サリンジャー/野崎孝訳/白水社uブックス/¥八二〇)、初めて読んだのは一九才の頃だったろう。あれから九年、読むのは三度目となる。初めて読んだとき、正直あまりよく分からない話だった。ところが今回は一〇ばかり年下の主人公に思い切り引き込まれていた。何かと「夢中になれない」はずのオレが没頭していた。これは何かの予兆、なのだろうか。

第四回

 自分の内側への冒険の末、僕はついに一つの発見をした。絡み合った草や木々の密生するジャングルをついに抜けると、そこはいきなり荒野だった…。
 年を明けてから、生活のほとんどをバイトと寝ること食うことに費やしてた。日給月給の身の上である僕は、正月休み分の稼ぎを取り返す必要があり、長時間労働もいとわず働きに出てたんだ。でもそうすれば当然『ねばぎば』製作のための時間も、写真を撮る時間も作れない。僕は生活に爪を立てられてうめきはじめる。何かしなきゃ、自分の時間を作らなきゃ。
 ときたま雲の切れ間みたいに自由な時間ができることもあった。そんなとき僕はどうしたか。何もできなかったんだ、実は。ズッシリと脱力感に乗っかられて、もう身動きできなかった。
「この意志の弱さは何だ!?」
 去年の夏ホテルのバイトを辞めたときどうだった?
「今日と、せいぜい明日のことに気をもむ生活に、わざとらしくとも傾いてみる。そうすれば、本当にやりたいことが、行きたいところが見えてくる」
そう思ったのに、何も起こらなかった。今も起こせないでいる。
「なんなんだ?! この弱さ!」
 この疑問を解く方法を、年末に読んだ本、『ライ麦畑でつかまえて』『アルジャーノンに花束を』が与えた。「自分の内側へ冒険に出よ」。
 僕はこの数年間してきたことを遡っていった。それからもっともっと昔の方への道もたぐる。少しずつ、少しずつ、日数をかけて探っていった。
 何をやったか、なぜやったか、どのようにやったか、何を得たか、何を得られなかったか。
 僕の中に、僕の知らない秘密が隠れてる。そういう想いがだんだんと確かになっていった。しかし見つかりそうで見つからない。そのイラだちと、実生活のイラだちが重なり、不安と高揚が入り乱れはじめた。まるでなかなか進めない濃密なジャングルだ。煮詰まるにつれ、僕は物忘れが激しくなってった。思いついたことを次の瞬間に忘れ、思いついた感覚だけが残る。その逆に、思いついた内容は覚えているのに、そのときの感情を忘れてしまう。日にちや曜日の感覚が薄れる。昼と夜が逆になる。

 そして一月二二日、僕は突如ジャングルからを抜け、荒野へたどり着いた。

 その日、知り合いの写真家の展示を見るため、珍しく東京へ電車に乗って出かけた。ココロはひどく揺れ、手のひらの汗が乾かない。すれ違う人々、電車の隣の席の人々がとてもコワい存在に感じられる。僕は帽子を目深に被ってじっとして、また「冒険」をはじめた。次々に色々なことが思い出され、僕を叱咤してくれるのに、次の瞬間まるでウソをつかれた気分みたいに、うつろになってく。電車は進む。今どうして気分が盛り上がったんだっけ…? 何を思いついたっけ?
 意識が、発見と忘却を繰り返しながら加速度をつけて凝縮してく。まるで焦げ付く寸前の鍋のようだ。もうその煮詰まる音が聞こえそうだッ。
 電車が駅に停車する。ドアが開く。同時に僕はホームへ飛び出した。飛び出してしまったんだ。
 駅名板を見上げると、目的地はまだ次の駅だった。僕はじっとりと汗をかいているのに気づく。心臓がいつもより早く打ってる。自分がその駅に立っていることがとても不思議だ。この駅までやってきた感覚はまるで妄想だ。僕はホームで固まってしまう。

 ふと顔を上げると、次の電車が入ってきた。なんだか白い白い気分になってた。電車は乗ってきたのと同じ形なのに、もうまるで違う乗り物に見えた。乗り込む僕も新しい僕じゃない気がした。

 * * *
「何が起きたんだろう…」
 家に帰ると、戻り行きがけの体験を思い起こした。そうだ、あのとき今までの自分を新しい自分が追い越したんだ…。こんな感覚は生まれて初めてだ。
 手元に一つの発見、冒険の成果が残ってた。それは僕がずっと守り続けてきた「嫌なものからは逃げる」という信条についてだった。そのフットワークを裏返せば、「攻めてない」ってことだったんだ。好きではじめたイカダ旅やハイキーン製作やなんかが、いつの間にか「逃げ」た先の不安を補うための活動にすり替わってたんだ…。逃げ回るが故に、次なる活動を生み出して行動するのが、まるで自分に対する義務になってた。その義務感に僕は潰された。

 今、荒野に立ってる。目に留まるものは何もなく、とても寒々しいけれど眺めはいいよ、とても。一歩踏み出せば、そこにゴキゲンなものがあるかもしれないし、恐ろしい敵が襲いかかるかもしれない。そう思うとおっかなくなるなけどね。進むか進まないか、攻め込むか否か、何に追われることなく決めればいい。
 僕はもう逃げない。それである時はゆっくりと、ある時は鋭く、気持ちが欲するままに、体が動きたがるままに、させておくんだ。

第五回

 ある晩僕は古くから知る女と二人、酒を呑んでいた。彼女は夢やら野望やらをあれこれ語るタイプの人ではなく、それは昔から変わりのないことだった。はたから見るとぼんやりなにげなく生きているように見えるその人だが、実は小さな幸せを見つけるのがとても上手な人で、日常の細事から、日差しの加減や空気の匂いから、少しずつ感動を見つけてはそれを確かな楽しみとして感じることができるのだった。
 その晩も彼女は「お風呂に入ってたらさ」とか「この前仕事場に向かって歩いているときにね」とか、暮らしの中で見つけた事柄をとても楽しそうに話すのだった。それは書き溜めたメモをたぐるような感じで、小さく簡潔で小気味よい体験の粒々だった。僕の方はこのところコレという話題もなく、珍しく聞き手に徹していた。いつもなら、「この前あれをやった」、「今度はこんな企画を練ってる」と言うようなことを僕は次々に話してみせていた。
 久しぶりに彼女とそうやって向き合っていると、彼女の存在感、地に足のついた感じは、それら小さな幸せの蓄積がもたらすものなだ、と今になって初めて気がついた。今さら、の発見に僕は驚きながらもうらやましく…、いや、明らかに嫉妬していた。
 特に目標らしき目標も持たず、ゆるゆると暮らしている彼女のことを、僕はこれまで退屈に感じたことが何度もあった。僕が披露する、僕自身のいろいろな活動やら、旅やなんかの話をとても興味を持って耳を貸し、憧れさえ口にしながら聞く彼女に対し、そう思うならばどうしてこの人は自ら動こうとしないのだろうか、と不思議になったし不満を持ったし、なかば見下すことさえあったのだ。
 ところがだ、さんざんあれこれやったあげく何もできなくなってしまった僕ときたら、日常の小さな幸せすら感じられなくなっているではないか。常に手の届くところ、足の着くところで、その生々しい感触を伴った喜びを重ねている彼女の前で、僕はなんと薄平い。きっと血液も僕のははるかに薄い。小さな幸せすら…、いや「すら」ではなかった、それがつかめない者が、大きな喜びをつかめるとは思えないではないか。
 あの懸命になって何かに取り組んでいる気分だった日々、あれは何だったんだ。それがどうしたってんだ…。
 僕が、時に自慢げに話して聞かせたことを、彼女は本当のところどういう気持ちで聞いていたのだろうか? そう思うと体が熱くなり、なのに同時に寒気が走る。
 僕はクラつきながら、今年に入ってからのココロ持ちについて話した。やりたいこと、やるべきことが積み重なり、ついには何もできなくなってしまったこと。その時々の衝動や欲望がいつの間にか「逃げ」た先での義務にすり替わっていたことに気づいたこと。彼女はときおり質問を交えながら聞き通し、そして言った。
「そんなに自分を追い込まなくてもいいんじゃないの? 待つ勇気ってのもあるんじゃないかと思うけど」
 待つ勇気…、この言葉には参ってしまった。そんな構え方を、どうやってこの人は知ったのだろうか。この強さはどこから来るのか? この言葉は気持ちのいい不意打ちの雨だ、荒野へ這い出たばかりの僕にとって。
 僕はもうどっさり力が抜け、体をすっかり預けたいというくらいの気持ちに覆われてった。この気分を伝えるかどうしようかとふわふわ迷っているうちに、彼女はまったく違う話題へと移っていった。
「そのケータイ、メールできる?」
と、僕がケツのポケットに突っ込んでいた電話を指して言うのだった。そんな機能があるらしいことはなんとなく知っていたが、使うことなど考えたことがなかった。彼女は自分の電話を取り出して簡単な文章を打ち込んだ。瞬時に僕の方の画面に受信を知らせるマークが点滅した。
「あ、やっぱりできるんだっ」
小さくはしゃぐ彼女につられ、あまり興味のなかった僕もなんだか嬉しくなる。
「電話のメールもねぇ、けっこう面白いんだよ」
と言う彼女の笑顔の明かりを、僕はまぶしく感じて少し身を引きながらも、心はまたいっそう寄りたがっていた。
 店内の人の数がまばらになったのに気づいたときには、とうに終電の時間を過ぎていた。
「あたしは大丈夫だよ、タクシーで帰るから」
二人とも明日は仕事があった。僕には引き留める理由をとっさに思いつく器用さはなく、店を出るのが自然な流れだった。
 駅前にたむろするタクシーに乗り込んだ彼女が、窓ガラスの向こうで手を振って去るのを見届ける。駅前の狭いロータリーの隅っこで僕はしばし立っていた。
「…職場まで歩こう」
と、決めた。二時間あればたどり着くだろう、そうすれば机に突っ伏してでも、床に段ボールを敷いてでも、始業時間まで寝ていられる。家に戻るよりはずっと効率的だ、とそれが上等な思いつきのような気がしたので、僕の足は軽やかに動き始めた。
 漁師町へと続く狭い路地を抜け国道に出ると、風が強く感じられた。車通りのほとんどないアスファルトの上をカッチリ冷え込んだ空気が次々に渡ってくる。そしてこれもまたカッチリ輝く月が冷気を演出している。なかなか温まらない体が、二月半ばの深夜を存分に実感していた。あまり気分のいいもんじゃないな、と歩き始めの軽い気分をすっかり忘れ、ひたすら黙々うつむき加減で歩いていった。
 とそのときケツの電話が短い発信音を鳴らした。立ち止まり見るとメール着信の印が点いている。
「タクシー途中で降りちゃった。今歩いてます。寒いけど気持ちいーね!」
 寒いけど…、か。
「ははっ」
僕は首をもたげて、笑ってしまった、僕を、笑ってしまった。
 密林から荒野へ、海はまだ遠い。

第六回

 日頃の小さな幸せ、をいろんな人から聞き集めていくと入浴場面を上げる人が少なくなかった。「風呂に浸かりながら本を読むこと」「音楽を聴きながら風呂にはいるとき」「ぬるめの風呂にボ〜っとズ〜っとつかること」などなど、みんなそれぞれのスタイルで幸せな入浴のひとときを過ごしているらしい。風呂嫌いのオレ(服を脱ぐのがめんどくさいの)にとっては新鮮な答えだったね。
 けど言われてみればオレにも風呂での小さな楽しみがあった。楽しみってほどのこたないけど、それは風呂場でタバコを吸うことなのな。
 風呂タバコは朝がいい。まだ寝ぼけたアタマのまま、ハイライトかなんか、重めのタバコを吸いながら熱いシャワーを浴びるのな。そうすっと起き抜けの体にヤニが効いて、ズドーンと重ーい気分になりながらもしかし熱ーい湯が血液をかき混ぜ、ハイ&ローを同時に味わえる。ここで同時にウィスキーと濃いめのコーヒーはどうかなって、思いついたけどこれはまだやってない。
 それと朝のタバコ風呂のもう一つ楽しみは、湯気と煙で満たされる白い空間。モウモウと湧き上がる湯気の中でぶかぶか煙草をふかすと、石鹸も浴槽も部屋へのドアも、自分の足さえも全て輪郭をもやに掻き消される。ぼやけた窓からの朝日で、浴室は白い白い光に包まれる。壁までの距離だって目測が効かなくなるほどにね。すると自分の頭だけが、光るもやの中に浮いてるみたいな感覚になって、これは不思議と気持ちがいいんだな。
 って感じでその朝もシャワーに打たれてると、高校一年のある夏の朝のことを思い出したんだ。
 そうだあのとき、オレはキャンプから帰っての朝風呂に入ってたんだ。 
「オレ達一晩あそこで寝たのか…」
っていう感動が湧き起こってた。たった一晩のキャンプだったがそれが特別だったのは『どこねこ』ってグループの初活動だったから。
 『どこねこ』は正式名称『千葉県どこでも寝込んでしまえの会』というのだが、この名前を見れば当時のオレがある作家をアイドル視してたな、と分かる人もいるかもな。そう、オレらはその作家に刺激され野営がしたくてしたくて仕方がなかったんだな。けれど部活のおかげで休みも少なくバイトもできず、どこぞの山なり海なりへ行けるという状態じゃあない。
「じゃあいい、近所でやろう。金がなくても時間がなくてもキャンプはできる」
ってわけでオレは仲間と三人、部活のはけた夏休みのある夕方、ママチャリに父親の古いテントや台所の鍋釜をくくりつけ、前から目をつけておいたキャンプ地に向かった。家の裏手の畑を抜け、谷津田を越えた先、近所の林の片隅がその場所だった。
 近所とはいえ辺りには人家もなく、日が落ちるれば山奥風情。テントを建て、焚き火を焚き、飯を作り、と内容は十分にキャンプにふさわしいものだった。もっともメシはレトルトカレーやカップラーメン、調理と言えるのは焚き火であぶったウィンナーくらいだった。けれどそんなモンでも夜空の下で食うと驚くほどうまいってことをはじめて知った。加えてホタルの光や、セミの羽化にも遭遇し「こんな近所にこんな神秘が!」と、探検チックな興奮も無理なく盛り上がるのだった。
 そして翌朝、家に戻ってしまうと一気に景色は日常世界。念願のキャンプをやったという気があまりしなかった。けれども風呂へ入ろうと服を脱ぎ始め、一気に実感が湧いてきた。体中に焚き火の煙臭がこびりついてるのに気づいたんだ。
「ああ、焚き火したんだよなあ。一晩過ごしたんだよなあ」
頭から湯を被っていると、信じられないような気分にもなってきたね。昔っからカブトムシ捕りなんかでなじみのある、あの林で、オレ達は確かに、一晩いたんだよな。あんな近所で、あんな非日常的なことができるってちょっと夢みたいだな、と。
 他の『どこねこ』隊メンバーも各々快感を見つけてしまったらしく、その後毎月のように近所の造成地やら田んぼやら林やら、人目に付かないところを探し出しては野営をした。四、五人集まってはチャリに乗り、遠いところでも一時間で行ける範囲で出かけた。
 原則的に土曜の夕方出発・日曜の朝帰り、というゲリラパターンで「メシ・焚き火・寝る」以外はこれといって何もせず、ひたすら純粋に「野営」のみを行い続けた。焚き火を前に時間を持て余そうとも、高校生にして酒さえ飲まなかったんだからな、自分達のこととはいえ振り返ってみると想像を絶するものがあるな。
 ただただ野営ということだけで、何がそんなに面白かったのか。それは家から離れた自分達だけの夜、然り。火遊びの魅力、然り。そしてどこか「アンチ・アウトドアー」という雰囲気もオレらにはあった。当時すでにディスカウントショップにキャンプ用品が並ぶようになり、オートキャンプ場が急増し、河原バーベキューとテント生活もいっしょくたんにして「アウトドアー」と呼ぶ、一つの遊びのジャンルが確立されていたと思う。オレはなぜかそんなアウトドアーの雰囲気をよしとしなかった。キャンプ場に行かないのも、キャンプ用品を揃えないのも、ただ時間と金がなかったからだけじゃなかった気がする。そんな反発も「どこねこ」の原動力であったのかもしれない。けども今となっては正確に思い出すことはできないよな。
 ともかく『どこねこ』は「メシ・焚き火・寝る」を重ねたね。一年後には千葉から軽井沢までの自転車野営旅という初の遠征もやったりした。これはちょっとした冒険だってんで、親に参加を承諾させるのに苦労したメンバーもいたな。
 そして高三、受験期になって一時中断した活動だったが、卒業間際に二度目の遠征を計画した。「東京湾一周自転車旅」だ。なんでまたもや自転車で、と思うなかれ、だよ。当時は自転車しか移動手段を持っていないコドモ達なんだからさ。
 計画は地元佐倉市志津を出発〜花見川に沿って東京湾に出て〜湾を西回りで久里浜へ〜フェリーに乗って千葉県浜金谷に上陸〜湾岸に沿って北上〜再び花見川に沿って地元へ、という三泊四日コース。
 実行は三月のはじめ。寒の戻りと前線の接近で天候はあまりよくなかったけども、軽井沢までの遠征もこなしていたオレらは天気の心配なんかより、久々の長旅に対する興奮が上回ってた。一度目の遠征も同じく三泊四日だったし、今度は峠らしい峠もないってことでオレらは余裕で構えてた。ところがよ、誤算があってこれが結構きつい旅になったんだな。

第七回

 三月初旬だったが寒の戻りで気温は低い。自転車の前後の荷台に荷をくくりつけ、我々五人は出発した。まずは花見川を一時間ほど走って東京湾にぶつかる。三日後無事にここまで帰ってこられるか。とりあえず挨拶がてら浜に下りる。腿まで水に入って貝を捕っている人がちらほら。
「今夜はアオヤギのみそ汁にしよう」
てわけで、しばし貝捕りタイム。
 ここから西回りで東京湾を周回開始。五人中三人は「千葉〜軽井沢」自転車旅をすでに経験していて遠乗りに不安はない。
「んー、軽井沢ン時を思い出すねー」
天気は寒々曇っていたが、我々の意気は上がっていた。
 気温は低いがペダルを漕いでいれば体が温まる、寒いとは思わない。とはいえ、夏場のように短パンTシャツってわけにはいかないから少々動きづらい。長時間漕いでいると次第に窮屈さにストレスを感じる。荷物の量も防寒衣類でおよそ三割増となっていた。それでも我々には無駄を省いて荷物を少なくとか、軽量コンパクトなアウトドア専用用品を投入、という発想がない。「しゃらくさい」ではないか。だから多少荷物が増えたくらいではいつも使ってる中華鍋や、飯炊き用のお釜や、ラグビー部御用達型金色ヤカンを「持ってくのやめよう」などとは考えもしないのであった。
 一泊目は新木場から突き出た埋め立て地、若州。釣り竿を持ってきたヤツがさっそくハゼを狙う仕掛けを作る。辺りに釣り人はなく、こんなトコに魚いないんじゃないの、というのが意見の多勢だったが彼いわく、
「竿を出さなきゃ確かめられないだろ。調査だ調査」
 アオヤギのみそ汁はうまかった。大量に砂をかんでいて身は食えなかったが。メシのあと、
「そういえば竿どおなった?」
「あ、忘れてた」
リールを巻き巻き、その仕掛けの先に…。
「おー、ハゼハゼ!」
痩せてるうえに何だか気味悪い黒々とした体色。
「…釣ったおまえが食えよな」
「当たり前だ。おまえらにはやらねーよ」
もとより分かち合うほどの大きさではない。果たして、火にあぶりハゼの丸焼き完成。
「味は?」
「…泥の味がする。ワタ取るの忘れちった…」

 明けて二日目はついに都心部へ突入。歩道の上り下りが増える、信号のたび発進と停止を繰り返す、隊列が分断される、など初の都会走りに「面倒くせー」といういらだちがふつふつと沸く。そんなことは都会を走ると決まった時点で予想するべきだが「東京湾一周? おもしれー。やろうぜ、いえーい!」という我々の発想の前にそんな心構えはなかったのだった。さらに今日も天気は曇りでやっぱり寒い。はっきり言って快適な旅にはほど遠い。
 それでも「鍋・釜・ヤカンを乗っけた自転車で記念撮影するのだ!」とわざわざ東京駅前やら銀座四丁目を通ってみたり、まだまだ余裕があった。がしかし芝浦、大井と辺りまで来ると、排気ガスはさらに増し、疲れも手伝って各々語気に棘が出る。
「一番前のヤツ、もう少し後に気ぃ使えよ」
「後ろのヤツ、信号引っかかったらデケエ声で教えろよ」
「ぜってぇ向こうの道行った方がよかったよ」
 なんだかんだで二回目は神奈川県走水に到達。日が暮れると対岸が細かなイルミネーション風に浮かび上がった。
「あのへんって千葉県なんだよね」
と誰かが言った。

 折り返しの三日目。疲れが目立ち始めていた。都市部を抜けて走りやすくはなっていたが車は多く、皆の口数は少ない。久里浜からフェリーで千葉県側へ。海上も交通量が非常に多くそこらじゅうに船がいる。
 浜金谷から北上開始、この日の目標は富津岬。千葉県側も車は多いし、歩道が狭くて走りづらい。国道を避けて海沿い海沿いと進んでくと、いきなり砂浜にぶつかった。道が途絶えてた。しかし引き返すはの面倒だと無理矢理前進。案の定砂に車輪を取られて転倒者続出。砂上に静かに倒れる自転車、鳴り続ける波音…。
 夕方、くたくたになって富津岬に到着。夕飯を終えると早々に皆テントへと潜り込んだ。一人は何が当たったのか腹の調子も崩していた。
 オレは一人焚き火の横で寝そべった。ラジオの天気予報が、明日こそは昼過ぎから雨だと告げている。防風林の松が鳴く、風も強くなったのだ。焚き火がパチッとはぜる。テントからは物音一つ聞こえない。
「最悪だな。完全な負け戦だな」
オレは思い、横になったまま夜空を見上げた。雲はいちだんと低くなって袖ヶ浦の工場の明かりを映してた。この旅で明るいシーンといえば、フェリーに乗ってるときくらいだ。折り返し地点ということでみんなの気がなごんだのか、一瞬差した日差しが気持ちを和らげたのか、とにかくあの一時とてもいい気分だった。それ以外といえば眉間に縦ジワの連続だった。と、溜息混じりに深く息をしたその瞬間、突然それはやってきた。
 オレの体に得体の知れない感動が染みわたったのだ。すげー不快適な旅だけど、でもサイコーだ。オレはここにいる、こうして好きなことを思う存分やっている!

 オレの意識は一気に現在、熱いシャワーの中に戻った。あのときの感動の一撃はいったい何だったんだろう。あの気持ちを死ぬまで求めようとあのとき思ったはずだ。それなのに今のオレの死に加減といったら何なんだ、どうした、このざまは。さあ、どうするよ!

第八回

 雨は細かく、かすかな風に舞って軒下までをも濡らす。こんな夜を野良猫らはどこでしのいでいるのだろう。
 雨の合間ごとに夏が近づく、夏が濃くなる。こんな時期にはしばしば思い出すことがある。
 もう五年はさかのぼるか、七月の小笠原で受けた風のこと。東京から千キロ南、大洋にポツポツ浮かぶその島々に、吹きつけるは産地直送の南風。海面から、いきなり四百メートルあまり突き上げる島の最高峰に、一人登って僕はその流れを浴びた。
 生まれてからまだ海の上しか渡ったことのない気流。もちろん僕はその一部を吸って吐いて、ホンのひととき体内に引き留めた。しかしまた吐き出すたび、皆次々と僕を置き去りにした。生まれ故郷、赤道近い海のアツい話をどこかへ伝えようと、止めどなく一心に流れていくんだ。僕とゆっくり話すひまなどない、といった勢いでな。
 さて今夜の空気はどこから流れてきたのかね。梅雨の匂い、夜の匂い、僕が感じるのはそれくらい。縁の下? 戸の壊れた物置? どこかで眠る猫らは、この空気をどう思うかな、話を聞いたりするのかな。アツい海の話、湿った大陸の話、小さな島の話、どんな話か僕には確かめようがないな。
 分からないことが多すぎるのだ、困ったことに。だからよくよく考える。それで考えているうちに、期を逃す。挙げ句「壁」に向き合って身じろぎできなくなっちまう。いざとなっても答えは見えない。人は僕に「考えすぎだ」と言います、そうかもしれない。
 ともかく動いてみようか、明日こそ打破だ、打破!

 新しい日もまた雨だった。カメラは雨に弱いけど、僕は携えてオモテへ出てみた。
 最初に出会った猫は、僕に気づくなり正面から視線をよこした。あまりジッと見られたモンだからついカメラのことを忘れてしまったほどだよ。
 慌てて構えたら、画面の中にあるのは風みたいに去ってく後ろ姿だった。雌猫だったのかもしれない、確かめようがないけれど。
 写真は撮れなかった。いやその言いぐさは素直でないな。「シャッターが切れなかった」のだ。ちくしょう、打破だ、打破!
 …と思っていたけれど、やっと撮った一枚はヒビの入った壁だった。メリハリのない雲空に、隙間が入って、久しぶりの夕日がさし始めた頃だった。
 「変革は一日しては成らない」、と言い訳しつつ僕は家路についたのさ。

 いつやって来たのだろう、僕の好きな人が布団に半分つかっていた。夕日が一条、室内に伸び込んで、肩と頬と耳たぶを照らしてた。きれい、って言葉が綺麗に浮かんだ。そのとき、僕は今度もカメラのことを忘れてしまっていたのだ。それこそ綺麗さっぱりと。
 夕暮れのオレンジは、彼女を撫でつつゆっくり部屋から出て行った。その間中、僕はぼんやり眺めたね。
 雨上がりの空気はやけに海の匂いがした。どこの海から来たのだろう。猫らは知っているかもな、確かめようがないけれど。

第九回

 連載始めてちょうど一年。はえ〜! また夏は過ぎてった。 
 あの夏頃から精神的ににっちもさっちもに落ち向かってった。僕は日常の顛末を文章にすることで自分と向き合い、スランプからの脱出を図るって作業を、この場を借りて試みてみようと思った。「リアルタイムの私小説」、読み物として成り立つかもなと。
 しかし、制作と郵送の原価とはいえみなさんの金一封¥二〇〇〇/年によって成り立つこの誌面(千葉をおもしろくする会会報)で、面白くなるかわからないものを書いていくというのは無責任だなぁという自覚もあったし不安もあった。
 それでもともかく書き始めた、よい結果になることを信じて。素直に正直に、逆にあるときはふんだんな脚色を込めて。んで、もう一年だ、早かったなぁ。そのくせ、一年前がえらく昔に感じるのはなんでだろう。半年前の原稿を読み返してみても、その頃の気分はすっかり色あせて正確に思い出せない。
 人の気持ちはどんどん変わってく。だからこそ一つのことをやり遂げる事に感動があるんだろな。
 んで、一年連載して信じていた「よい結果」は出せたのか。…出せなかったね。今のところ出せてないよ。でも、それだけでもないよ。ついてくるのは結果だけじゃない。だからやっぱり、やれることを一つでも多く試してみるべきだと思う。やれることはいくらであると思う。
 本当にやりたいと思ってるのかどうか、自分で見極めるのが難しい。「いいこと思いついた!」と思って動いてみてから、すぐに冷めてしまって続けられない、ってのが怖い。情けなくなる、自分がいやになる。そして巻き込んだ人に迷惑をかける。かけててきた。ひどいことした。いや、今もしてる。
 だからやっぱり、一つのことをやり遂げる事って感動するんだろな。
 これは妄想かもしれないけれど、僕は今大人になろうとしているのかもしれない。齢二十八にして。半年前の原稿が古くさく感じるほど、僕はどんどん変わってく。昨日の僕は子供じみて古びて見える。僕はいったい誰なんだ? 辺りを大人に囲まれて、夢みたいなコンプレックスに包まれて、どこへ向かったらいいのか、何を大切にしたらいいのか、見えないまま不安にさいなまれつつ日々は次々に巡る。
 先日夜中のTVで、ボクシングのタイトルマッチをやってた。日本人が挑戦者の試合だった。フルラウンドなかなかの善戦の末、判定ドローでチャンピオンの防衛となった。挑戦者は武器にしていたボディーブローを、いい形で再三食わせ続け、その効果もチャンピオンの動きに如実に現れてた。しかし決定打に欠け、判定は妥当と思われた。まさに挑戦者「善戦」だった。
 その試合を見ながら、挑戦者に向かって僕は心でこう念じていた。
「おまえのやるべき事をやれ。相手がどうこうじゃない。自分がすべき事をやれ」
 試合解説者がそんなことを言ったのを無意識に聞いてたのかもしれない。自分のこれまでの経験がそう思い起こさせたのかもしれない。いやもしかしたら、同時にTVを見ていた人々の似通った気持ちを、オレの脳が受信したのかもしれない。
 いずれにせよその言葉は、ひらめきに似た感覚で僕の頭に浮かび、そして挑戦者へ向けていた。と同時に僕自身に向けていた。

 連載はこの稿で終わりにします。
 『野良猫は海へ』…。書き始め当初、僕は「集団的でない」猫、しかも飼われていない野良猫、に憧れてた。そんな家もない家族もない猫が、いつの日か広い世界につながる「海へ」とたどり着けるような話にしてゆきたい、と思ってた。そんな風に暮らしていきたいと思ってた。その様はきっと読むに耐えうるものになるだろう、という希望を持って始めた連載だった。
 けれどもどうにも今の僕にはそれが書けない。毎月楽しみになるべきメディアに載せるものが書けない。だからこれで終わりにします。
 一年間、一度でも読んでくれた人、ありがとう。読んでコメントをくれた人、何人かいて、すごく嬉しく、少なからず心動かされました。ありがとね。そしてこうして発表場となってくれた「千葉をおもしろくする会会報『ねばぎば』」というチャンスに、感謝します。
 死なない限り「生きよう」と思います。つらいときはそれが、登る坂道の途中だからだ、と信じて。では、いずれまた。
   おわり 2000年9月

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