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鬱と時間(記:2020年秋)

 家の前から南西向きに海が望める。
 厚い灰色の雨雲が水平線を煙らせている。
 どおおおおおお……
 台地の下で磯辺が呻いている。冬がやって来る。除雪車の音で目覚める日が続く年もあったし、田植えに水が足りるかが話題になる暖冬もあった。この冬はどんな調子か、7回目の冬は。

 ここらでは40代は若ぇモン、60代は現役ど真ん中という雰囲気で、42歳で転居してきた当時は若返った気分だった。そのまだまだ若い60代だった人らは70前後になり、70代だった人たちは引退を見据えるような歳。そして近隣で9人、10人……逝った人がある。50歳がすぐそこに見えてきた私はといえば、目。子供の爪切り、歯磨き……見えない。もう我慢できない。ついに老眼鏡を買う。

 去る冬に就いた仕事が、続けられなくなった。
辞めさせてもらった。
ここにも思い当たるのは年齢のことだ。
 若いころ(と言ってもいいとしよう)、新しい仕事は新しい世界を開いた。思考が明日を拓いた。行ったことのない道へ踏み込んで、湧いてくる好奇心がその先へと誘った。けれど今、ブレーキがかかった。他でもない自分の体が自分を止めた。あの頃とは違うぞと。
 それは鬱。鬱の再発。ここへ来て6年半、もう大丈夫と感じてたのにこの返り咲き。

 今年の初め頃その仕事に出会った。奮起した。耳も目もピッと立った。
 しかしわずか半年後の今、いやな感じ。だめだ、まずい、やばい、もうダメ……。
 あぁ、なんだやはり頑張れないのか。
 会いたくなかったけど、ハロー アゲイン、ヘル アゲイン。最低の邂逅。

 診療室は天井近くまで大きな窓になっていて明るかった。
 血液検査と問診。
 やはり双極性障害ですね、薬出しとくんで、飲みながら様子みましょうか。
 と、いただいた「お札」のご利益で、そのまま急坂を転がり落ちるのはまぬがれた。しかしいつまた地面が傾き始めるか。いや、傾いてるのは自分の方か。恐る恐るやり過ごす日々。勤務時間を短くしてもらい、思考はやや投げやりを心がけながら。

 なぜこんなことになった? どこで間違ったんだ?
 良い縁で始まった仕事だったのに。先々を見通せる目標に成り得たのに。いい仕事見つかってよかったね、会う人会う人が言ってくれたのに。今までの倍近い収入も見込めたのに。そう、やりがいのある勤めのはずだったのに。
 若い頃なら突き進んだだろう自分。なぜブレーキか。加齢期か。それが歳か。そうさ歳さ。ならば能力と言い換えるのだ。身についたんだよ、生まれた川を嗅ぎつけるような力がさ。身体は糞ミソ脳ミソ前頭葉をひっくり返しちゃうのさ。

 その糞ミソの病は治るのか? いや、治らないらしい。
 先生、治りますか?
 あのね、治るかどうかというよりね、あなたには弱点があるわけです。何がつらいか、どうゆうときに具合が悪くなるのか、書き出してみて。そうして弱点を可視化すると、今後悪くしないヒントになるはずですから。
 ……ううむ、裏を返せばこの6年、なぜ回復できた? 何が助けになった?
 薬は「時」かもしれない。この暮らしに流れる時間。
 時計があまねく区画し続ける、前だけを見てる無表情なそれではない。

 春から夏へと、植物は押し迫るごとく枝葉を伸ばす。人の営みは春夏秋冬に刻み込まれる。落葉が重なり重なりいつしか朽ち、人は脈打ち季節を周って齢を重ねる。
 私が浮上できたのは、そんな息づく波のような時間が満ちる海だった。もう一度、あの海に浮かぶ。そして、もっと感じよう波を波浪を。
 ハローアゲイン。帰り道はこの身体が知ってるはずさ。

 そうゆうわけで、仕事を辞した。
 どどぅ ろぅ ろぅ ろろろろろろろ……。
 これは波が砕ける音ではない。遠雷だ。山も街もないと、雷鳴はとても遠いところから届くらしい。しかし、あのパリパリした高音はさっさと空気を引き裂いて立ち消え、ゴロゴロした中低音の太鼓打ち達も途中で離散。気配を伝える重低音だけが海上全体を響き渡ってくる。
 おお、秋はきっと今日までだ。そこまで来てる、冬が来てる。
 その到来の姿は毎年同じだ。大時化と大風とそして雷とともに雪、なのだ。

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