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boundaryについて考える

                               烏 滸                                              
  毎年、秋になると、母校のラグビー部の様子を見に行くことにしている。自分の汗が染み込んでいるグラウンドに立っと、妙な落ちつきと微かに喉の奥の方に震えを感じるのをいつも不思議に思う。しばらく顔を出さなくても、後輩達の視線に、自分が浦島太郎になってしまったことを知らされても、グラウンドは私を拒否しない。そればかりか、錆の出たポールは手を振って「やあ」とでも声を掛けてくれるかのようだ。やっばり、暇を見つけて来て良かったと思う。


  部室には異様なニオイが漂っている。初めて入ったときなど、30秒もいられなかったほどだが、その独特のニオイは馴れてしまえば逆に自分の体臭のように、いずこともなく溶けてしまったものだ。教科書や参考書は出版社が変っただけで、やっばり乱雑に積み重ねてあるし、泥と汗で煮染まった、何と判別もつかない練習着たちは、年に一度の大掃除を待っているかのように堆積している。今ではその当時の感情や事実とかけはなれた鉛筆の落書も、まだ残っていた。自分の分身のように惑じていた賞状たちは、幼いころ、葉の化石などと同等にしか扱われなかった、若い時分の親父の写具のように黄ばんで、寒そうにまるまっている。


  I さんの写真がほこりだらけのスパイクやジャージの中に埋もれている。彼は高校時代の2つ上のキャプテンだった。写真の彼は何故か寂しげに笑っている。山行きのセーターは暖かそうではないし、無理矢理彼を過去の一瞬に刻みつけたようで歯がゆい気がする。

  初めての夏は1年生にとって大変つらいものである。上級生がまるで天かける仙人のように見える。7月に入ると夏合宿に備えての激しいトレーニングが始まり、おてんとう様は閻魔様となる。毎日毎日、疲労が蓄積されてゆく。黒板は遠くになり、ノートはどんどん近づいてきて、あっちへ行けと言っても言うことをきかず、知らないうちに頼みもしないのに枕になっている。


  1人休み1人怪我で倒れるという具合に人数が減り、部室にむかう足取りは重たくなる。ある日、1年生は、誰からともなく4・5人教室に群れて、登部拒否の症状を起した。根っからのアブラムシである私も当然その中に入って、頭をかかえこんでいた。自分の意志で始めたことなので最後まで一貫したいという気持ちと、眼前に広がる灼熱の恐怖との一歩で千里の間を彷徨っていたのだ。皆一様に納弁で考えは進まぬ様子だった。どれ位の時間がたったろうか。部室に向かうもの、帰宅するもの、いつしか私は独りで床の上に雑のうを枕にして眠ってしまっていた。


  目が覚めると私は一瞬、自分がどこにいるのか解らなかった。肺の中の伽藍どうのような教室は、私に行けと命じた。それは今にして思えば、“場”を失ないたくないという心理だったのかも知れない。が、しかし、そんなことではなかったのかもしれない。とにかく私は部室に向かった。練習は真っ盛りだった。オクレテスミマセンと挨拶をして私は部室に入った。スパイクの紐を結んでいると、Iさんが笑っているとしかおもえない細い目で、話かけてきた。
   「ナンショッタトヤ」
   「ネテマシタ」
   「クラサルーゾ、ナノパ、トボケトートカ 」
  会話はそれ切りだった。私はとにかく走りだし、いつもと同じようにメニューをこなした。


  その後、私は胃腸をズタズタにこわして、結局、1ヵ月見学することになった。8月の後半、復部してからは胃の中の水の音が聴こえてくるというミヨーチクリンな感覚を気にしつつ、時々ちぎれながらも、金魚の糞のようにみんなについていった。

  9月に入ってからの練習は、上級生と歩調をそろえて試合に備えねばならなかったので、また格別の重さがあった。ある日、練習のつらさはピークに達し、どこからともなく吐き気がやってきた。自分が不甲斐ないとは思いつつも目の前が暗くなってゆくのだ。私は何度か躊躇し、そしておそるおそるIさんに言った。
   「吐きそうなんです。」
すると彼は格別表情を変えるでもなくあっさりと答えた。
   「全部吐いてしまいやい。そうしたらまた走れるけん。大丈夫大丈夫。」
  私は唖然とした。そんな答が返ってくるなどとは予想だにしなかった。我慢しろとか休んでいろといった言葉が返ってくるとは思ったが、怒りや同情の感情のを含まずに、吐いてしまえと言われるとは思わなかった。私はうなだれた。どうしてよいか、どう自分の体と相談してよいか分からなくなってしまった。ふき出す塩水のような汗をぬぐって頭を上げると、Iさんはもうメンバーに声をかけてて走っている。それを見ていると何かが大きく流れているように思えてきた。私は大きく肩で呼吸して、その中に飛び込んでいった。胃の裏にある空洞で除夜の鐘のようなでっかい音か鳴り続けているのが、そのとき判った。そして胃液を絞り出すように吐きながら走り続けた。

  練習が終ったあと、Iさんは私にこんな話をした。自分もこりゃだめだ、これ以上何も出来ないと思うことかよくあったけれど、大概のことはやってみるとやれるものなんだ。もう走れないと感じても、とにかくやってみろ、倒れてしまうまでやってみろ。そしてどんなに苦しくても頭を下げないことを身につけるんだ。苦しい時は空を見て腹いつばい呼吸をするんだ。頭を下げずにプレイすることは次のプレイにつなぐことができる。最も苦しい時、相手をしっかり見つめて、倒すことができる。


  このごろ、boundaryということについて、よく考えるようになった。数年前までは、自分は自分で自分になったと思っていたのだが、だんだんそうではないということに気づいてきた。そこには多くの人々が介在しているという自明のことを再認識したのだ。そして、自分が自分で自分になったと思いこんた意味、つまり、私が自立するのを助け、尚且、私にそれを意識させなかった人々について考えだした。しかし、それは漠然としたもので、なかなか心の箪笥に納めることができるものにならなでいる。


  小学生や中学生にポンと質問をされて答えに窮するということはよくあることだと思うが、ウーンと考え込んでしまわなければならないことが何度もあった。例えていうとどういうことかというと、「田中角栄とは、いったい良い奴か悪い奴か」とか、「ホモというのは何か」といった質問に出逢うと即座に答えることができないのである。できないばかりか、答えられないという事実に妙にこだわってしまって、一種の金縛りにあってしまうのだ。考え過ぎと言ってしまえばそれまでなのだが。


  政治というものは、情勢論によってしか説明できない大腸菌のような存在だし哲学や正邪などというものもあると言えばあると言えるし、ないとも言える。世界的規模で進んでいるパワーゲームや官僚、財界の事実をその上っ面だけを取って来て、どうきばっても一言で語ることはできない、というのが本音だ。ましてや、前の晩、本など読んだりしていると、よけいそういうことになる。法廷で展開されている微妙な掛け引きや、それに到るまでの右余曲折に登場してくる太古からあまり変わりばえのしない2本足の、そして、そうある以外にあり様のない動物の姿をついつい想い浮かべてしまう。そうすると、薄っペらな教科書の中の三権分立の図など、鰯の頭にさえ思えてしまうのだ。


  また、精神分析的知識、性についての宗教的歴史的な意味、アメリカなど諸外国の性のあり様、日本の風土が醸し出す性観念の特殊性など、解ったようで解らないことを生かじりにしていると「ホモっていうのは、人口過蜜の状態で起こる一種の産児制限機能だ」などと、それこそ訳の判らないことを言ってしまいかねない。つまり自分自身明確にしておきたいと、必死になって情報を吸収したり学んだりしている最中なのだ。それを体系的に把握しきれていないままに、子どもの要求に従ってシンプルな形で説明するのは、何かうそをついているようでつらい。かといって、子どもの本当のことを知りたいという気持も自分がかつてそうであり、今もやはり、そうであるだけによく判るのだ。


  そういうことが、何度か繰り返され、子どもの不満そうな顔や不安そうな眼差しを見つづけてきたが(今でもそうだか)、 最近、心理的に悩んでいる子どもを持つの親御さんと会って話をしているうちに、あることに気がついた。そういった親御さんの苦胸の中に私の感じたジレンマの、より濃縮されたものを見た気がしたのだ。


  それは、親御さん方が子どもに対して安心し、確信して提出しえるboundaryをあまりにも持っていないということである。世の中には多くの価値観があり、それぞれはそれぞれに価値があるという価値の相対性の中に、日々七人の敵を見ている父親などには、自分の子どもに対してどの様にオリエンテーションしてよいのか判らないという状態が起こってしまうらしい。特に敗戦以降の価値観のめまぐるしい変化の渦の中で、人が育ってくるプロセスで身につけて来た色々な価値観を1つの体系とできなかった親は、子どもに食い破るべき殻を与ええず、かえって自分の動揺と不安とを混沌という形や堅い枠として与えてしまっている。それが引いては様々な難しい問題を生じさせる背景になっているようなのだ。


  考えようによっては、私がいだいているアンビパレントな感覚というのは、1つの普遍性があるのかもしれない。殊に、ある意味で、親にならずとも親の心性、大人の心性を理解しなければならない若い教師やカウンセラーにとっては切実な問題なのではないだろうか。若い教師やカウンセラーは、現実に、日々の経験が大人の仲間入りをしてゆくプロセスである。その中では、自分の小さなboundaryの中に閉じこもってばかりいることは許されない。常に自己のboundaryを拡げる努力、あるいは現実まとっているboundaryを柔軟にすることによって多くの未知のものに対する受け入れ態勢をとっているのである。つまり自己の成長のプロセスとしてはベクトルの方向が外に向かっており、子どもやクライエントに対して1つのboundaryを提供するという役割においては、ベクトルは内側に向かっている。1つは壊す作業であり、lつは造る作業である。即ち、精神的営為の作業が常に2重の方向性をもって行なわれているのである。ちようど、山道に迷い、連れた子どもに位きつかれて、もう少しだもう少しだとなだめすかしているような状況に似ている。自分でも道を求めて目は血走り、頭はカッカきて半分泣きたいところなのに、ここで子どもと?緒になってしまっては活路は見出せないので、落ちついたところを見せ、大丈夫大丈夫と腹の一つもたたいてみせねばならないのである。


  話を拡げて考えてゆくと、このことは、教師やカウンセラーに限らず、文化の継承者として、大人へのプロセスを歩む現代の人間に宿命的に背負わされる業のようなものだとも言えるのではないだろうか。お墨付をどこからももらえない、現代の社会では、この窮めて困難な作業を一人一人が取り組むことを暗黙の了解事項とする筈なのである。しかし実のところ、暗黙は暗黒なのであって、子供達は漆黒の闇の中にいるということになる。まあ、暗黒の現代というのは現代の暗黒に過ぎないのだろうけれども。


  話を戻そう。人間が人間である存在として生まれてくるのではなく人間になる存在として登場してくるのと同じように、親は親となる存在であり大人となる存在なのである。分析が示す人間の発連プロセスによって明らかなように、親は子を育てることを通して、親自身の幼少時からの人生を繰り返し、完成された人格を形成してゆくものである。つまり親は親としてのステージを受けとり、子どもとともに歩むことによって安定したboundaryを身につけ大人としてのidentityを獲得すると考えるのである。


  しかし、その論理そのものは、直接私の問題を解決してはくれない。子どもやクライエントと接することを現実の問題としている若き(?)私にとって、自分のboundaryと子供やタライエントのboundaryとをどのように位置づけていったらよいのか。実際に親でない自分、いや多くの若い教師やカウンセラーにとって、心ならずも子供やタライニントに対してのboundaryを提出するのは大変である。教師にしてもカウンセラーにしてもsuperviseを体系的に受けにくい現実の状況の中ではそれは大変の重たいのである。では、この問題をどのように考えていったらよいのか。


  私は親ではない、(当分は残念ながら)これは自明のことだ。しかし、親が親になるプロセスというものを擬似的にたどることはできないだろうか。河合先生は自分にとっての真実ではなく、向かい合った相手の真実によって対面せよ、と言っていたが、正に相手の真実、子供のクライエントの真実というものがあるということに着眼しなければならないと思う。そして、相手にとっての真実を見きわめることこそ、大変な作業なのだといえる。それはただ単に教科書の中の発達プロセスの理論を学べばこと足りるものではない。やはり、そこでは親が親になるプロセスの擬似体験か必要になってくるのではないだろうか。親が親になるプロセス、即ち、ここではクライエントを通して、自分が現在までたどってきた発達を体系的に把握しなおしてゆくことが行なわれるべきだる。敢えていえばそのときに多くの同様な発達史を示した資料(教科書・小説・症例・など)をかたわらに母集団として置き、重みづけを検証しながら学ぶ必要がある。資料を利用しながら、あくまでも客観的視点を保持しつつ自分の発達史をたどることによってオリジナルなboundaryの発達マップを作ることができるのではないだろうか。そうして出来たマップはきっと教科書の図表でも子どもの頃からの成績のたばでもない筈である。それは教科書のように総合的妥当性に欠けるかもしれないが、少なくとも役に立つでものとなるはずである。


  そのマップを用いて子どもやクライエントに提供されるboundaryは、彼らが半歩前進できるものとしたい。この半歩こそ、子どもやクライエントの内在する力を信じ、彼らが自立を自分の力でなしたという自信に連なるものだと思うのである。


  また、自分の発達史をたどり、客観化体系化してゆくなかで、現状の自分のboundaryのありかを明確にするということは、ひいては現状のboundaryの拡大にもつながるものだと言えよう。

  つけ加えるまでもなく、前半でノスタルジックに並べた文章は、自分のboundaryというものがいかに存在し、いかなる形で拡大され、そこに人がいかに関わったかをスケッチしたクロッキーである。


  I さんは今年5月、穂高で転落死した。自分の中にいまだに鮮明にある彼の残像を失なわないうちに何かに留めておきたいという気持ちと、もう訪ねていってあの頃のことを確かめてみることかできなくなったというやり場のない喪失感とが、私をこの拙文に向かわせた。

 [この文章は、福岡人間関係研究会エンカウンター通信に起稿したもの(1980.12)に少し加筆しました。]

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