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ショーロホフ「静かなドン」資料集①「コサックについて」

「コサックについて」
 
河出書房新社 世界文学全集44 ショーロホフ 静かなドンⅢ 解説 桑原武夫
より引用
(引用はじめ)
「コサックまたはカザークとは、本来「自由な人間」または「まもりて」の意である。十五、六世紀に当時のロシア国の南端に、逃亡奴隷や都市の貧民が集まって広い土地を占拠し、つぎの世紀にはトルコやタタールの侵入者を防衛した。ロシア政府は彼らに武器、食料、資金をあたえて国境防衛に当たらせたので、彼らはそこに独自の自治的、軍事的組織をつくりあげ、いわゆるコサック兵の供給源となった。のちウラル、カフカズ、シベリアなどにも進出して、皇帝政府の爪牙となった。しかし、中央政府はやがてコサックからその自治的特権をしだいにとりあげ、その地域を自己の直接支配下におこうとしたので、下層コサックは中央とむすぶ上層コサックに反発し、これがステパン・ラージンやブガチョフの反乱にもむすびついたのである」
(引用終わり)
 
ミハイル・ショーロホフ『静かなドン』におけるコサック―その主体化と解体―
平松 潤奈 より引用
(引用はじめ)
周知のように、コサックとはもともとは逃亡した農民や都市民がモスクワ公国やポーランドの辺境に形成した自治的な集団であるが、17 世紀末あたりから皇帝権力によって徐々にその自治を奪われていき、19 世紀には完全にロシア帝国の統治システムに組み込まれていたとされる。しかし 1917 年の 2 月革命で帝政が崩壊し、コサックはツァーリ体制の一環としての社会的地位を失った。それとともに非常に短期間のうちにコサック・ナショナリズムが高揚し、コサック自治への動きが活発化していく。『静かなドン』で描かれるドン・コサックに関して言えば、ピョートル大帝の治世以来開かれていなかったコサック総会круг が 200 年ぶりに再開され、コサックの頭目アタマンは、ツァーリの任命によるのではなく総会によって選出されるという自治制度も復活する。
ドン地方にはもちろんコサックだけが居住していたわけでなく、非コサック住民が半数以上を占めており、臨時政府のもとでは、コサック/非コサックにかかわらない一般大衆の政治参加形態の組織化が促された。しかし革命以前にロシア皇帝に従属していたコサック軍団は、総会を機に自らをドン軍団政府と名乗って、武力を背景にコサックの自治独立へと動きだし、一般的な行政組織(ドン執行委員会など)からのコサックの分離を進める一方で、コサックに限らない住民全体に及ぶ行政権を行使していく。
このように革命期のドン地方では、コサック・アイデンティティを強調する政治的・社会的な動きが急激に顕著になっていくが、だからといってコサック集団は決して一枚岩的な存在として自己主張をしていたわけではなく、「コサック」という単一のアイデンティティは、諸々の政治的立場が押し進めたレトリック、歴史家の言葉を使うならば「コサック・ナラティヴ」の産物にすぎなかった(上述のようなコサック軍団政府への同一化を求めたのは、もちろんコサック社会の支配層である)。実際、階層分化や南北による地域格差の拡大、そして第一次世界大戦に出征中の若年世代と家に残った老年世代との政治的対立など、この時期のコサック社会には多くの亀裂が走っていた。しかしコサック社会における異なる階層において、それぞれ異なったかたちではあれ、「コサックであること」が何らかの政治的・社会的要求が生じるときの梃子となって働きはじめ、それがコサックたち自身のみならずコサック外部からも認知され、実効力をもっていったことは重要である。帝政の崩壊によって、それまで明確であったコサックの法的地位が突然消失し、分裂した状況が剥き出しになったからこそ、コサック・アイデンティティを統合力として求める動きが必要とされたのだ。しかしコサックの古い制度が復活したとはいえ、コサック・ナショナリズムのイデオロギーは困難な状況にあった。ピーター・ケネスが述べているように、「結局コサックは独立した言語と独自の文化をもった民族ではなく、単なる特権的な利益集団にすぎなかった。コサックたちは何世紀にもわたって彼らが分離していたことを強調する歴史を必要とし、さらにはロシア人民との関係性をはっきりさせるような自分たちの『ナショナリティ』の定義を必要としていたのだ」
(引用終わり)
 
以下 河出書房新社 月報世界文学全集42 座談会「静かなドン」を語る(その一)
荒正人 佐々木基一 原卓也 より引用
(引用はじめ)
荒 コサックというのうはどういう感じのものですか。
原 それがどうも、普通にわかりやすく言えば日本の屯田兵みたいなものでしょうけれども、屯田兵とはちがって、ひとつのコサックという特殊な階層なんですね。要するにコサックというもののあいだには農奴制というものがないんです。彼らは農奴制から逃げ出してきた連中、あるいは監獄へ送られる途中で脱走した連中、そういう連中がだれもいないドンのところに来て、そこにひとつの部落を作ったのですね。ですから、自分たちの社会はおれたちが作ったんだというプライドを持っていたのです。それで自分たちはただの百姓じゃないんだ、おれたちは小さいときから、軍隊の軍事訓練を受けているし、ただ鍬を持っているだけじゃないんだということですね。同時に都会の労働者に対しても、おれたりは立派に自分たちでかち得た土地を持っているんだという、誇りがあって、非常に排他的だったんですね。
荒 なるほど……
佐々木 ドン・コサックというのがあそこに定着したのはいつごろですか。
佐々木(? 恐らく正しくは「原」)そう、十五、六世紀だったと思いますが。
荒 そうとう古いですね。それで、はじめに、つまり第一巻第一編なんかに出てくるメレホフの屋敷というのがありますが、メレホフというのはコサックでしょう。その屋敷の感じというのはどういう感じですかね。荘園ともちがうんでしょう、中世の。
原 メレホフの家ですね。それはそんなに大きくないんです。要するに部屋が三間ぐらいしかないような小さなものです。ですから金持ちじゃないけれども、生活には不自由しないというところで、小説のなかでメレホフ老人が、うちは今年はたいへんな不作だったけれども、あと二年分ぐらいの麦がある、と言う台詞がありますけれども。
荒 それは税金なんかは出さないんですか。(笑)
原 いや、そんなことはないでしょう。
荒 治外法権ではないんですね。
原 ええ。むしろ革命の前にはツァーの親衛隊だったんですね。ですからツァーの親衛隊に選ばれるということはコサックのあいだでは大変な名誉だったんです。この小説のなかでも、そういうコサックのエリート意識というようなものが、とっかえひきかえ出てきているのです。(引用終わり)
 

 

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