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「夜明け前」用語・資料集

「夜明け前」用語・資料集

①   街道宿駅関連

本陣 江戸時代に街道筋の宿場に設置された、参勤交代する大名や幕府役人の宿泊・休憩にあてられた幕府公認の上級宿舎。大名宿とも呼ばれた。勅使(天皇からの使者)院使(上皇からの使者)宮家(宮号を賜った皇族男子を祖先とする皇族の一族)門跡(皇族公家出身の住職)公卿(三位以上の上級公家)旗本(将軍直参で一万石未満の武士で御目見え以上の武士)などにも利用された。本陣庄屋問屋を兼ねる例が多かった。馬籠本陣は中山道が公道になった慶長六年(1601)以来、島崎家の世襲だった。

 

問屋 街道の宿駅には問屋場があって、公用の旅客や荷物を中継輸送した。問屋はその責任者。年寄は問屋を補佐する役割。共に幕府公認の宿役人。

 

伝馬役 公用の旅客や荷物を滞りなく継ぎ送る為に、宿には一定数の人馬を常備することが義務付けられていた。この人馬を宿場の住民として負担する役が伝馬役。伝馬役は馬役と歩行役(あるきやく)に分かれていた。

 

水役 問屋の下で伝馬役以外の雑用を務める人。宿村の用水・堤防・道普請役等の労役、七里役、歩行役も受け持つ。

 

七里役 七里飛脚。尾張藩と紀州藩が備えた飛脚。七里ごとに宿を置いた。一里は3.927キロメートル(江戸時代は地方によって一里の距離が異なっていたという説もある)

 

代永勤め 代永(代金)を出して伝馬役を肩替りする場合を言う。

 

入り鉄砲と出女 江戸に鉄砲を持ち込んでの反乱行動を防ぎ、江戸に人質として在住させた大名の婦女子の帰国を監視し厳重に取り締まる事。

 

例幣使 江戸時代、朝廷から日光東照宮の四月十四日の大祭に差遣された奉幣使(神に捧げる幣帛(ぬさ)を届ける使者)

 

助郷 公用旅客の通行の増加により、宿駅の常備人馬で間に合わなくなる場合に、宿駅近辺の郷村から不足分の人馬を供出させた。この徴用人馬制度が助郷。木曽十一宿の助郷が公認されたのは正徳二年(1712)。この時に木曽十一宿の正規助郷村には木曽山脈を越えた上下伊那郡の村々が指定された。馬籠を含む木曽下四宿の助郷は下伊那郡の二十八カ村(その後三十三カ村)が負担した。助郷人馬には伝馬並みの公定賃銭が給与された。木曽十一宿の伊那助郷は一日一回の勤めに、往復日数三日を要するという問題があった。


増助郷 加助郷または加助ともいう。街道の公用旅客の交通量の増加に伴い、助郷村の負担が増加、負担軽減の為、追加された助郷村が増助郷。本来の助郷は定助郷。

牛行司 江戸時代の行司(行事)は仲間の役員、組の親方といった意味で用いられた。牛行司は牛方の支配者。馬籠近辺では、中山道近辺の商品を附け送った牛方仲間の頭分。

運上 江戸時代に商工狩猟運送等の営業者に課した税 

助郷の負担(中公文庫日本の歴史18幕藩制の苦悶 農村復興「模範的な公用通行」を参照)

②   山林関連

巣山 江戸時代、鷹狩用の巣鷹を捕獲する為に鷹が巣をかけた山林の一定区域を巣山に指定した。巣鷹を保護する為に一般の立ち入りを禁止。そうすると巣山の森林も立ち入り禁止となり森林の保護につながった。木曽の巣山は留山と内容的に同じだった。

 

留山 尾張藩では木曽の森林資源を保護する目的で、寛文五年(1665)に馬籠近辺の湯舟沢村や田立村が全て留山となり、禁林に指定し、住民の立ち入りを禁止した。これが木曽の留山の始まり。享保九年(1724)の林政改革で留山数および林域が増加し、留山二十か所、総面積二万町歩超えとなった。

 

明山 開放林。木曽の明山の中には、焼き畑に利用する柴・草山・採草地の秩場(馬や牛の飼料を刈る草生地)なども含まれ、大部分は樹木の茂った山林だった。住民はここで建築・土木用の雑木や薪炭材・柴草などを採ることが出来た。しかし停止木と呼ばれる木曽五木とけやきの伐採は禁止された。停止木に準ずる有用樹の留木(栗・松・桂)は許可制で明山から採取可能だった。

 (中公文庫 日本の歴史15大名と百姓 山・水・村 も参照して頂ければ幸いです)

 

③   神道など

中座 御嶽山の行者が加持祈祷や神占を執行する際、神伺いの座に就く要員。男の巫子に相当する行者。

 

本地垂迹 仏あるいは菩薩が、この世にいろいろな姿(迹)をあらわす(垂)こと。日本の神々は本地としての仏がこの世に迹(あと)を垂れたものとされた。神仏習合の一種。

 金胎両部 大日如来を知徳の方面から説明した部門(金剛界)と、慈悲の方面から説明した部門(胎蔵界)。真言宗の二大法門で、この教理により説明された神道が両部神道。

 ④   開港問題

貿易章呈における関税率(日米修好通商条約第4条の別冊)
輸入部門(無税 日本居留人の所持品 金銀貨幣 金銀 衣服 家財 非商用書籍等)(5% 船具 鯨具 塩漬け食物 パン パン粉 鳥獣 石炭 建築材 米 籾 蒸気機械 トタン 鉛 錫 生絹)(35% 蒸留酒 醸造酒)(20% それ以外のすべての品々)

幕末主要輸出入商品
輸出品は生糸・茶・蚕卵紙(この頃欧州生糸の主要地である仏伊で蚕の病気が流行、日本から蚕卵紙の輸出が増大。蚕卵紙とは蚕蛾を紙の上にのせて卵を産み付けさせたもの)海産物などの半製品と食料品が中心。主力は生糸で輸出総額の5割から7割。

輸入品は毛織物、綿織物、武器、艦船などの工業製品。

日本は欧米先進国の原料・食料品供給地、製品販売市場となった。

 

各港の輸出入割合

通商条約により安政6年(1859)に横浜・長崎・函館の3港が開港。

貿易額は横浜港が1位で全国貿易額の7割以上。

長崎が2位で1割から2割を推移。函館は極めて少量。

 

金貨流出問題

日本の金と銀の交換比率が、国際水準と比較して極端な金安であった(金銀の交換比が日本1:5に対し国際水準は1:15)外国人は銀貨を日本に持ち込んで小判(金貨)に換え、それを持ち出して売ると3倍の銀を得ることができた。大量の日本金貨が国外に流出。

「開国によって生じた金貨の流出については、単なる金銀比価の内外格差の問題として捉えるのではなく、当時、金貨を中心とするわが国の貨幣体系において補助貨的な位置付けにあった銀貨が、日米通商条約によって金銀複本位制体系における銀貨という位置付けに変えられてしまったことが、結果として内外格差を発生させることになった、という視点を重視することが必要と思われる」(江戸時代における改鋳の歴史とその評価 大塚英樹 日本銀行金融研究1999)という視点もある。 

 

万延改鋳
万延元年(1860)の幕府による改鋳政策。 日米和親条約で部分的に自由化された交易により小判(金貨)が大量に流出したため、金の含有量を落とした小判を鋳造。この結果ハイパーインフレーションが発生。

 

幕末の物価騰貴
万延改鋳による影響と、輸出の急増により生産が追い付かず品物が不足したことなどによる輸出品の物価騰貴が、他の品物の高騰に拍車をかけた。特に米価の高騰が凄まじかった。

 

(・中公文庫 日本の歴史 ・浜島書店 新詳日本史図説 ・岩波新書 井上勝生 幕末維新 シリーズ日本近現代史① ・筑摩書房 現代日本文学大系 島崎藤村集 ・講談社現代新書 水野祐 日本人の歴史 中央公論社 日本文学 島崎藤村 等を参考に作成しました。)

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