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「夜明け前」資料集③明治初期の宗教政策

「明治初期の宗教政策」
1868(明治元)年3月 神社分離令が出され、各地に廃仏毀釈運動が起る。
         神祇官の設置(閏4月21日の政体書による太政官制)
1869(明治2)年7月 神祇官・太政官のもとに6省設置(版籍奉還後の2官6省の太政官制。祭政一致の方針により神祇官は全省庁の最高。宣教が重要な仕事に加えられる。宣教使を置く)
1870(明治3)年1月 大教宣布の詔(天皇中心の国家神道が大教の名で国民に布教されることになった)
1871(明治4)年8月 神祇官を神祇省に格下げ(廃藩置県後の正院・右院・左院の3院制、正院のもとに各省を置く官制改革)
1872(明治5)年 神祇省、宣教使を廃止して教部省を設置。大教宣布運動を展開
1876(明治9)年 黒住教を公認(教派神道)
1877(明治10)年 教部省の廃止(国民教化の中止、祭祀と宗教を分離し国家神道を確立)
1885(明治18)年12月 太政官制を廃止。内閣総理大臣と国務大臣からなる内閣制度の創設
1889(明治22)年2月 大日本帝国憲法の発布

明治政府は1868(明治元)年から1869(明治二年)の前半は、祭政一致・天皇の神格化と直結する神道国教化を進め、国民の思想・宗教統一を図り、キリスト教も弾圧した。
1868(明治元)年1月に神祇事務科が設置され、3月17日仏教僧侶が神社の社務に従事することを禁止し、還俗させ、僧位・僧官を返上させた。4月28日仏教語をもって神号にとなえている神社に由来を報告させ、仏像を神体とすることや、梵鐘・仏具類を神社に置くことを禁止するなどの神仏分離策を進めた。この間、国学の影響を受けた者たちや神職らにより、神社と仏堂の分離、社地と寺域の分離が強行された。またこの時期は版籍奉還廃藩置県前であった為、藩単位での過酷な廃仏を行う地域もあった。
同年閏4月の政体書において、神祇官が設置された。しかし、各地の廃仏毀釈運動が過激になっていき、秩序の破壊につながったり、仏教が廃れることでキリスト教が流行することを新政府は恐れるようになり6月には神仏分離令は廃仏の趣旨ではなく、僧侶の還俗の強制も不可であるという訓告が発せられた。
1869(明治2)年7月の職員令によって神祇官を一般行政機構を司る太政官の上位に位置づけた。この間、廃仏や一揆などによる秩序の破壊や民衆の台頭を抑えつつ、中央集権体制実現の為の方策がとられ、6月の版籍奉還により中央政府の諸藩内政への介入・統制の道が開かれ、祭政一致・神道国教化による国民強化が全国的に展開された。
神祇官には「宣教使」という役所が新設され、10月4日神祇伯(神祇官の長官)を宣教長官とし、1870(明治3)年1月「治教ヲ明ラカニシテ惟神(かんながら)ノ道ヲ宣スベシ」という「大教宣布」に関する詔書が発布された。3月には府・藩・県に布教使の適任者を推挙させ各藩内の思想・信仰政策を中央政府が直接掌握する政策がとられた。1871(明治4)年7月4日には「大教ノ旨要」が宣教使および諸藩に示され、人民教導が行われた。
1871(明治4)年7月の廃藩置県に伴い中央官制の大改革が行われた。8月8日一般国務に当る太政官の外にあって、それより上位におかれた神祇官が廃止され、その事務は太政官中に新設された神祇省に移され、祭政一致の建前は制度上後退した。しかし、天皇による日本全国、全国民に対する専制支配強化のため、天皇を神的権威として尊信させる必要があり、そのための政策が継続された。
1872(明治5)年3月には神祇省・宣教使ともに廃止され、教部省がおかれた。その中に教導職が設けられ、神官・僧侶・儒学者がそれに任じられた。中央に大教院(芝の増上寺に置かれた)、府県に中教院、その下に小教院がおかれ、「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴朝旨遵守」の「三条の教憲」による説教がなされた。
しかし、1873(明治6)年、特に浄土真宗を中心とした大教院解散運動が起り、1875(明治8)年4月政府は神仏の合同布教を禁止、大教院を解散した。
その後も成果が乏しかったので1877(明治10)年に教部省が解散、残存した教導職も1885(明治18)年には全廃され、教部省廃止後の政府による国民強化策は学校や軍隊教育で行われるようになった。
政府は大教宣布のような神道思想による公然の説教のほかに神道思想や天皇崇拝に基づく祝祭日制度を通じて、国民の中に天皇崇拝を浸透させようとした。天皇誕生日を祝う天長節、4月3日の神武天皇祭、2月11日神武天皇即位日(紀元節)、11月23日新嘗祭などである。

「国家神道と教派神道」
宗教と祭祀の分離によって、神職は原則として葬儀や教化活動をしないことになった。神社神道(国家神道)は宗教としての内容を捨て儀礼中心だけのものとなった(ただし明治維新のとき、神道にかわった人もあったので中小の神社の神職は葬儀を行った)。それに対して教化活動などをする宗教である神道は公認され教派神道とよばれた。(国史大辞典)


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