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「静かなドン」小説内の出来事と歴史上の動き。第二巻第四編

小説「静かなドン」内の出来事を太字、歴史上の動きを普通字で記しています。
ロシアでは1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までユリウス暦(露暦)が使われており、ユリウス暦(露暦)に13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できます。
ロシアでは1917年の10月革命から3ヶ月後にボリシェヴィキ政府の政令により、グレゴリオ暦が導入し1918年1月31日の次の日は、2月14日となっています。
この記事では、ロシア国内の出来事は1918年1月31日までは基本的にユリウス暦(露暦)とし、グレゴリオ暦の部分は(グレ暦)と表記しています。
1918年2月14日以降はロシア国内の出来事もグレゴリオ暦になります。
グレゴリオ暦の導入はボリシェヴィキ政府によってなされたので、1918年2月14日以降も反ボリシェヴィキ政府の間ではユリウス暦が使われていたようで、小説のなかでもそのような記述があります。
随時更新しています。
 

第四編(一)1916年10月(露暦)の塹壕戦のエフゲニー・リストニツキイ大尉とボリシェヴィキのブンチューク少尉
 
歴史上の動き 
(1916年の西部戦線)
2月21日ドイツ皇太子を総司令官とするドイツ軍は、大勢を一挙に決する覚悟でフランスのヴェルダン要塞への攻撃を開始。フランス軍はこの攻撃に耐え、敏速な軍隊輸送により兵力を適時に投入することに成功。戦闘は12月まで続き双方合わせ70万の死傷者を出したがが決着しなかった。6月下旬、ドイツ軍のヴェルダン要塞への攻勢が鈍り、英仏連合軍がソンム川方面で攻勢をとる。同時に東部戦線でもロシア軍がウクライナ西部ガリツィアに進撃(ブルシーロフ攻勢)。しかし東西両戦線いずれも決定的な戦果は得られず、すでに戦線が膠着して塹壕戦に移行していた上にかつては考えもおよばなかった物量戦・消耗戦となった。飛行機や潜水艦などの新兵器が登場し機関銃が威力を発揮し、両陣営でも塹壕戦に対応した新たな戦闘方法と武器が必要になった。それに対応したのがイギリスでは戦車(タンク)であり、ドイツでは毒ガスであった。戦争の形態は大きく変化した。そのため、銃後の女性や植民地の住民を含めた総力戦体制をきずくことが勝敗を決する鍵となった。
(1916年の東部戦線)
1916年6月(グレ暦)ブルシーロフ攻勢始まる。このロシア軍のオーストリア軍にたいする奇襲作戦は大戦果をおさめたが、同盟国軍の中軸であるドイツ軍に損耗がなく、戦況の転換は限定的だった。ロシアでは人的資源が枯渇し中央アジア、シベリヤ、カフカース異族人やムスリム諸民族を後方に徴用する勅令を6月に出した。これに反発する反乱が7月から起こり始めた。ロシア国内経済も危機に瀕した。生産が軍事面に集中され、労働力不足、ロシア国内の物資不足が極限に達した。人員は馬匹を徴発された農村も同様だった。ロシア諸都市では食糧危機が深刻化し前線では兵士の命令拒否、逃亡が相次いだ。1916年10月(グレ暦)には首都ペトログラードの六万の労働者が物価値上げに反対してストライキに入った。
8月27日にルーマニアが連合国側で参戦。ルーマニア軍は初期には勝利をおさめたが、秋にはジーベンビュルガーで敗北し、首都ブカレストはドイツ軍に占領された。ロシア軍は相当部分をルーマニア戦線にさかなければならなかった。
 
ボリシェヴィキのブンチューク少尉は1917年の2月革命、10月革命、その後のロシア内戦(1918-1922)を予想。第一巻で志願兵であったブンチュークが少尉になり、塹壕戦中にほかのロシア士官たちにプロレタリアート独裁を語り、レーニンの言葉を説明。「日露戦争は1905年の革命を生んだがー今度の戦争も、きっと新しい革命に終わりますね。それも革命だけじゃない、国内戦だ。」(ブンチューク)*ロシア第一革命とは、1905年に発生した「血の日曜日事件」を発端とするロシアの革命。第1次革命とも言い、第2次革命(第二革命)は二月革命を指す。
ブンチュークは機関銃兵を組織し、党の細胞をこしらえる。リストニツキイはブンチュークの動きを阻止しようとするが、ブンチュークは隊を脱走。
第四編(二)軍隊内でブンチュークのアジビラが発見される。脱走したブンチュークは新たなボリシェヴィキの任務につく。
第四編(三)1916年10月3日(露暦)10月16日(グレ暦)イワン・アレクセーヴィチ・コトリャーロフら特別コサック中隊の進撃。ドイツ軍と交戦。毒ガスも使用され、悲惨な戦場となり被害は甚大である。
第四編(四)物語は1915年5月(露暦)に戻り、戦線に復帰したグレゴリー・メレホフは第十二コサック連隊に属し、オリホーフチク村付近で第十三ドイツ鉄(くろがね)連隊と交戦。1915年7月(露暦)ラヴァ・ルースカヤ付近、グリゴーリィ・メレホフ一小隊のコサックを率い、オーストリア軍に包囲されたコサック砲兵部隊を救出。グリゴーリィ・メレホフ、アクシーニヤの夫であるステパン・アスターホフを戦場で助ける。
ロシア軍全体は劣勢であるが、グリゴーリィ・メレホフ個人としては上記以外にも非常な活躍をする

歴史上の動き
(1914年ドイツの二正面作戦)
ドイツ軍の開戦当初の作戦はシュリーフェン・プラン(東西の二正面作戦を回避するため、まず主力をもって中立国を侵しフランス軍を撃破し、反転してロシア軍を壊滅させ短期決戦を目指す)によっていた。この計画に従いドイツ軍は中立国ルクセンブルクに侵入し占領。ついでベルギーに進軍し、8月18日にはベルギー・フランス国境に達する。8月下旬にはドイツ軍はマルヌ川を越えたが、ロシア軍の動員が予想以上に急速に行われた為、西部軍の一部を東部戦線へ急遽割かざるをえなくなり、ドイツは二正面作戦に引き込まれた。
(1914年の西部戦線)
9月初め、ドイツ軍は局地的勝利を得て進軍していたが、パリとヴェルダンを結ぶ線上で反攻に転じた英仏軍の激しい抵抗にあう。9月5日からのマルヌの会戦によりドイツ軍は後退し、戦争は機動戦から陣地戦に移行した。ドイツ軍とフランス軍はお互いを包囲しようとして戦線が海岸に向かって延び、700キロメートルにおよぶ西部戦線は1914年末には塹壕戦として膠着状態に陥った。 
(1914年の東部戦線)
1914年7月の開戦時にはドイツ軍が西部戦線に兵力を集中させたため、ロシア軍の出だしは好調だった。開戦から二週間もたたないうちに、防備の薄いドイツの東端部に侵入した。しかし、1914年8月29日(グレ暦)のダンネンベルクの戦いで、ロシア軍はドイツ軍により、7万の死傷者と9万2000の捕虜をだして壊滅させられる。ドイツ軍は東プロイセンからロシア軍を駆逐した。ドイツ軍の勝利とは対照的にオーストリア・ハンガリー軍はガリツィアでロシア軍に敗北。カルパチア山脈まで後退した。オーストリア・ハンガリー軍はセルビアにも敗れた。11月トルコがドイツ側に立って参戦し、開戦初頭は局地的勝利を収める。これに対応するためイギリスはエジプトをイギリスの保護領にすると宣言し、ドイツに対する経済封鎖を指令した。極東では日本が青島を攻略。
(1915年の東部戦線)
ドイツ軍はあらためてまず東部戦線でロシア軍を徹底的に撃滅することを決意。1915年5月ロシア軍はガリツィアに再侵入したがドイツ軍とオーストリア・ハンガリー軍の反撃を受けガリツィアから後退。夏には三度にわたってドイツ、オーストリア・ハンガリー軍が攻勢したためロシア軍はポーランド戦線で総崩れとなり「大撤退」を余儀なくされた。ロシア軍は全戦線で潰走状態に陥り、ロシア領まで撤退することになった。ロシア敗退の原因は、兵器が不足し、さらに開戦から数か月分弾薬備蓄しか持たなかったなどが挙げられる。「大撤退」がロシア社会におよぼした影響は①ヨーロッパ=ロシアの約三分の一が的占領地となり、鉄道網が失われた②銃後地帯の縮小で流通、とくに食糧の円滑供給が失われた③多くの男子が徴兵され、深刻な労働力不足になった。しかし、ロシア軍の中枢部隊が殲滅されることはなかったため、9月末には東部戦線においても戦闘形態が機動戦から陣地戦に移行された。1915年夏にはロシア国内でロシア政府批判の声が高まり、自由主義者の間で国会議員の四分の三を集める「進歩ブロック」が結成され、内閣改造を要求した。開戦後抑えられてきた労働運動も再び起きるようになった。8月にロシア最高司令官に就任したロシア皇帝ニコライ2世は「進歩ブロック」や大臣の反対をおさえて、国会の休会を命じ、食糧の調達と兵器生産に邁進した。開戦時に530万だったロシア兵は、1916年末には1400万を超えた。16年末までのロシア軍の戦死者は53万人。負傷者230万人。捕虜および行方不明者は251万人に達した。16年6月動員拡大の為、それまで兵役を免除されていた中央アジアやシベリアの諸民族などに徴用の勅令が出され、これに反対する住民の反乱がおきた。17年にはロシア帝国全域で見た50県州平均で所帯あたり50歳以下男子人口1.3人中の半数0.6人が招集されていた。
(イタリアの参戦)
イタリアは三国同盟を破棄し1915年5月23日オーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告(ドイツに対しては1916年8月28日に宣戦布告)。イタリア参戦によってオーストリア・ハンガリー軍は兵力をイタリア戦線にさかざるをえなくなった。10月にはドイツ、オーストリア・ハンガリー軍はセルビアに対する攻撃を開始。12月までにドイツ、オーストリア・ハンガリー軍はセルビア全土を征服し、モンテネグロを降伏させ、北アルバニアを占領した。これによってドイツからトルコまで直通の鉄道網が完成した。
(イギリスの海上封鎖、ドイツのUボート、アメリカの参戦)
1914年11月イギリスは大西洋の制海権を掌握し、ドイツに接する北海を交戦海域と宣言。機雷を敷設。海上封鎖を行い、運航する船を停船させ臨検を行い敵国向け軍需物資を没収した。ドイツは1915年2月にイギリス周辺を交戦海域と宣言。侵犯船をUボートで攻撃すると宣言。攻撃された船の中にアメリカ人も乗っていた為、アメリカのドイツへの感情が悪化した。1917年1月ドイツは無制限の潜水艦攻撃の方針を発表。2月3日アメリカはドイツと国交を断絶。4月6日アメリカはドイツに宣戦布告した。
第四編(五)タタールスキイ部落(グリゴーリィ・メレホフらの出身部落)。戦争の第三年目は部落の経済のうえにはっきり痕をとどめた。ナターリヤ、双子を産む。ダーリヤ浮気三昧。ステパン死す。パンテレイ敗北す。
第四編(六)1916年11月(露暦)タタールスキイ部落。メレホフ家、モホフに借金する。ミチカ・コールシュノフ帰る。
第四編(七)1917年1月(露暦)にはラスプーチン暗殺、3月には専制の転覆に関するうわさが部落にも広がり、人々は動揺する

歴史上の動き 
(ラスプーチンの暗殺、帝政ロシアの動揺)
1916年11月(露暦)ロシアでは再開された国会でカデット(立憲民主党)の指導者ミリュコフが「愚行なのか、裏切りなのか」という演説を行い、皇后アレクサンドラとラスプーチンとの関係、ドイツ出身である皇后とドイツとの内通の疑いを糾弾した。16年から17年にかけての冬は記録的な豪雪にみまわれ、食糧の輸送が滞り、都市部では深刻な食糧難が生じた。12月17日(露暦)、ラスプーチンが暗殺された。17年1月にはペトログラードではパンを求める長い行列ができ、略奪行為も頻発した。
(二月革命)
1917年2月23日(露暦)3月8日(グレ暦)、ペトログラードで国際婦人デーにあわせて繊維女工から示威行進の発議が起こる。彼女らはストライキに入り、他の労働者らにも作業放棄するよう呼びかけた。同日正午ごろには民衆の波が官庁街に達し、市議会前でデモが行われた。「パンをよこせ」という要求が中心となっておりこの時点では衝突は極力制止されていた。この時点のストライキ参加者は9万人ほど。ストライキに従ったものはペトログラードの労働者の20パーセント程度と概算された。
2月24日(露暦)3月9日(グレ暦)他の労働者もこのデモに呼応。要求も「パンをよこせ」から「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大。
2月25日(露暦)3月10日(グレ暦)ストライキ参加者はペトログラードの労働者の90パーセントに達し、学生も参加するようになる。「ラ・マルセイエーズ」と革命歌が歌われストライキ・デモは過熱していく。午後にはカザック兵の発砲により犠牲者が出るようになる。ペトログラード軍司令官ハバロフ将軍は警官隊と軍隊に労働者との無用な衝突を避けるよう指示し、混乱の鎮静化を図った。しかし皇帝が26日早々にはデモとストライキを鎮圧するよう下命する。労働者のデモ隊に警察と軍隊が銃を向け、150人以上が斃れた。
2月26日(露暦)3月11日(グレ暦)明け方にはペトログラードの北岸の一部がストライキ・デモ側の手に落ち、労働者街の各警察署は略奪放火された。当局は各所の橋を通行止めにしたが効果がなかった。午後になって初めての不服従行為が近衛兵連隊の兵士の中におこった。皇帝はドゥーマ(ロシア帝政期の国会)に停会命令を出し戒厳令を発した。
2月27日(露暦)3月12日(グレ暦)兵士の不服従運動が拡大し、暴動に参加する連隊が現れる。兵器廠が暴徒側に奪われ、裁判所も放火される。内務大臣、宮内大臣官邸、要塞司令官や警察署長の官舎が放火された。冬宮に赤旗がはためき、皇室の紋章が焼き払われる。ペトロパウロスク要塞が陥落し、政治犯や禁固されていた労働者グループが解放された。午後のうちに政府は総辞職した。
2月28日(露暦)3月13日(グレ暦)労働者や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成。メンシェヴィキのチヘイゼが委員長に選ばれた。ボリシェヴィキは執行委員15名のうち2名を出したのみで、明らかに立ち遅れていた。ドゥーマの議員達は国会議長である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。臨時委員会はソヴィエト軍事委員会を指導下におくことに成功し、各省庁の接収に着手。特に鉄道省をおさえたことは大きく、鎮圧軍の首都への移動を阻止することができた。
3月2日(露暦)3月15日(グレ暦)、ドゥーマ臨時委員会は、カデット(立憲民主党)のリヴォフ公を首相とする臨時政府を設立した(第一次臨時政府)。この臨時政府には、社会革命党からアレクサンドル・ケレンスキーが法相として入閣したものの、そのほかはカデット(立憲民主党)やオクチャブリスト(十月党)などからなる自由主義者中心の内閣であった。ペトログラード・ソヴィエトは条件付きで臨時政府を条件付きで承認し、またペトログラード守備軍に対して「命令第一号 補給ならびに労働者民兵の管理」を出した。「帝国議会の軍事委員会の命令は、労働者兵士ソヴィエトの決定に反しない場合にのみ遂行される」などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。
臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公は翌日の3月3日(露暦)3月16日(グレ暦)にこれを拒否し、ロマノフ朝は崩壊した。
戦争の問題では、臨時政府は連合国との協定を遵守し戦争続行することを選択。ペトログラード・ソヴィエトは帝国主義的戦争目的を否認し、無併合・無賠償の講和を主張した。ただ国土防衛のための戦争は容認する革命的祖国防衛主義の立場をとった。
(四月テーゼ)
1917年4月3日に亡命地スイスから「封印列車」で帰国したレーニンは、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と題したテーゼ(四月テーゼ)を発表し、臨時政府不信任、ボリシェヴィキ中心のソヴィエト権力の樹立、帝国主義戦争絶対反対の立場を表明した。4月20日ペトログラードの兵士を中心に、戦争継続に固執する臨時政府外相ミリュコフの打倒「すべての権力をソヴィエトへ」の声が高まり、大規模なデモに発展する(四月危機)。5月に入ると、危機を何とか乗り切った臨時政府はソヴィエト主流派の入閣を求め、政権安定を図った。メンシェヴィキとエスエルから3人が入閣し、連立(第二次臨時)政府が成立した。しかし、この政府も、戦争の帝国主義的目的(領土併合)を否定しつつも、国土防衛、新たな攻勢の必要を説く点で、戦争に背を向け始めたペトログラードの住民を納得させることはできなかった。1917年5月から6月にかけては全ロシア農民ソヴィエト大会や全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開催され、農村では旧来の支配機構が打破され、自立した共同体の「村団」にもとづく郷(村より上の自治組織の単位)委員会が結成された。ウクライナでは5月に中央ラーダ(ソヴィエト)とよばれる政権が樹立され臨時政府と対立。6月の全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会でウクライナの自治が認められた。この時期、民族革命と臨時政府との対立が深刻化していった。
(七月蜂起)
第一次連立政権は6月中旬にドイツ軍に対する「夏攻勢」を開始したが、兵士たちの厭戦気分により完全に失敗する。6月18日ペトログラードの労働者や兵士は軍の新たな攻勢に反対して、ソヴィエトにデモを組織させ、30万人以上が参加した。7月3日(露暦)には労働者・兵士による、権力をソヴィエトに求めての武装デモが決行された。4日には兵士4万以上、労働者30万人以上が参加した(七月蜂起)。臨時政府とソヴィエト主流派はデモをボリシェヴィキの反政府陰謀とみて、トロツキーらの逮捕に踏み切る。レーニンは潜伏しフィンランドに逃れた。前線ではロシア軍の6月攻勢が失敗し、7月にはドイツ軍の反攻がはじまり、ロシア軍は窮地に陥った。ペトログラードの治安の悪化、犯罪の多発、食糧不足などから7月24日には臨時政府は4人のカデット党員を入閣させ、ケレンスキーを首班とする第二次連立(第三次臨時)政府を発足させる。
第四編(八)ニコライ2世退位。臨時政府樹立の報は転換中のロシア軍にも伝わる
第四編(九)ペトロの中隊は直接師団の指揮下におかれる。ダーリヤ、戦場のペトロを訪ねる。
第四編(十)エフゲニー・リストニツキイ大尉、第十四コサック連隊へ転任。エフゲニー・リストニツキイは革命色の強い前任連隊を逃げ出して休暇に出たが、帝政派の多い連隊に転任した。7月16日(露暦)には首都ペトログラード守備の任に就く。
第四編(十一)エフゲニー・リストニツキイと士官たちは二月革命から七月蜂起までの状況分析と将来予測を行う。

歴史上の動き コルニーロフ将軍は1917年3月(露暦)からペトログラート軍管区の指揮を任され、7月19日には臨時政府軍の最高総司令官に任命される。コルニーロフは保守派の支持を受け、積極的に戦争を継続し、ソヴィエトを牽制し、臨時政府に権力を一元化しようとした。
第四編(十二)7月末。イワン・ラグチン(エフゲニー・リストニツキイの中隊に属するコサック)がペトログラード・ソヴェトの軍事委員会に出席し、自身の小隊のコサックたちの教化している。エフゲニー・リストニツキイはコルニーロフ将軍のクーデターの動きを知る。
第四編(十三)1917年8月6日から8月13日(露暦)、コルニーロフ将軍はクーデターの準備を行う。
第四編(十四)1917年8月13日(露暦)エフゲニー・リストニツキイはコルニーロフ将軍のモスクワ入りを目撃
第四編(十五)コサック特別中隊、第三騎兵軍団の諸隊と共に騒擾鎮圧の為ペトログラードへ向かう。イワン・アレクセーヴィチ麾下コサックたちはコルニーロフ将軍の檄文と、コルニーロフ将軍を裏切者と断定するケレンスキーの電報を読む。イワン・アレクセーヴィチらはコルニーロフ将軍支持を唱える士官らと決別し、ペトログラード行きを拒み戦線に戻ることを決意実行。

歴史上の動き 
(コルニーロフ将軍のクーデーター未遂)
コルニーロフ将軍は1917年8月25日(露暦)に配下の将軍に首都進軍を命じ、27日に第三騎兵軍団をペトログラードに移動させて軍事独裁を企て、ケレンスキーに退任を要求した。カデット(立憲民主党)の大臣達はコルニーロフを支持したが、ケレンスキーはソヴィエトに支援を求め、ソヴィエトもボリシェヴィキ中心に臨時政府支持を決定。軍の首都進撃を阻止するとともに、工作員を送り込んでコルニーロフ軍を内部から解体した。9月1日(露暦)コルニーロフ将軍は逮捕され、コルニーロフ反乱は結果としてボリシェヴィキの政権への影響力を強めることとなった。コルニーロフ反乱を支持したカデット(立憲民主党)の権威も失墜した。
第四編(十六)1917年8月29日(露暦)コルニーロフ将軍は、クルイモフ将軍からの電報で武力革命が失敗したことを知る。
第四編(十七)第三騎兵軍団とトウゼムナヤ(土民師団)ペトログラードへ転送中。途中で労働者や鉄道従業員らの抵抗にあう。1917年8月29日(露暦)ガガリン公爵指揮のトウゼムナヤの第三旅団、パヴロフスク付近で敵に遭遇。28日には土民師団長バグラチオン公爵はロマノーフスキー将軍が27日に発した電報を北部軍司令部経由で受け取る。師団の鉄道輸送困難。臨時政府ケレンスキー側からの妨害。コルニーロフ将軍より鉄道を使用せず行軍するよう指示。バグラチオン公爵従わず。転送中の第一コサック師団第二中隊第三小隊のコサックたちのもとにペトログラードよりブンチューク現れコルニーロフ将軍に抗命し進軍を中止するよう説得。コルニーロフ将軍の8月29日の檄文に応じ、困難となった鉄道による移動を中止し行軍隊形にてペトログラードへ進軍しようとするカルムイコフ大尉らと中隊の集会にて論戦となる。ブンチュークはカルムイコフ大尉を逮捕し殺害。
第四編(十八)1917年8月30日(露暦)コルニーロフ将軍に代わりアレクセーエフ将軍が最高総司令官に任命される。8月31日(露暦)クルイモフ将軍はケレンスキーに呼びつけられペトログラードで自殺。クルイモフ軍、臨時政府に帰順。同日、コルニーロフ将軍、幕僚側近らと対応を協議。反乱の中止を決定。9月1日(露暦)アレクセーエフ将軍着任。コルニーロフ将軍ら逮捕される。
第四編(十九)1917年10月下旬(露暦)エフゲニー・リストニツキイ大尉、中隊を引率し宮廷広場へ向かうよう命令される。イワン・ラグチンらコサックたちは冬宮を警備するが、革命バルチック艦隊の水兵らの説得に応じ、警備を放棄する。アタルシチコフ二等大尉撃たれる。

歴史上の動き 
「十月革命」
コルニーロフ反乱のさなか、ソヴィエト権力樹立を求める声がメンシェヴィキやエス・エルの間で高まる。一方、ボリシェヴィキ、特にボリシェヴィキ左派はソヴィエト左派政権の樹立を主張。ケレンスキーはこうした動きに危機感を抱き、ソヴィエト以外の民主主義諸派に支持基盤を求め、さらに有産者階級へも働きかけ、1917年9月25日(露暦)に第三次連立(第四次臨時)政府を発足させる。副首相にブルジョアジー代表のコノヴァーロフを任命した。潜伏中のレーニンは武装蜂起の決行、臨時政府打倒を党中央委員会に提案。10月10日ボリシェヴィキは中央委員会会議で武装蜂起に関する決議を採択し蜂起指導のための政治局を設置。10月12日、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会は反革命からのソヴィエト防衛のためのソヴィエト軍事革命委員会を設置した。これがボリシェヴィキの指導下に入り、ペトログラードの軍各部隊への働きかけが行われ、革命委員会は次第にペトログラードを掌握していく。10月16日ボリシェヴィキは中央委員会拡大会議で軍事革命中央部を置いた。10月23日夜から24日朝にかけて、臨時政府側が巻き返しを図る。士官学校生徒を戦闘態勢に入らせ、革命委員会指導者の逮捕、ボリシェヴィキの機関紙印刷所の接収を命じた。革命委員会側の兵士や労働者はこれに反撃し、ペトログラードの中央郵便局、国立銀行、中央諸新聞の編集局を占拠。臨時政府閣僚を冬宮に追い込んだ。レーニンは「中央委員への手紙」でただちに蜂起して権力を掌握するように訴え、24日夜遅くボリシェヴィキ党中央委員会と軍事革命委員会のおかれていたスモーリヌイ女学校へ到着し武装蜂起を直接指導した。
「十月革命2、人民委員会議(ソヴナルコム)」
10月25日(露暦)11月7日(グレ暦)午前10時、レーニンは軍事革命委員会の名で「ロシアの市民へ」を出し、臨時政府が打倒されたことを声明した。午後1時予備議会が開かれていたマリア宮殿が占領され、午後2時35分からのスモーリヌイでのペトログラード・ソヴィエト総会で、レーニンがソヴィエト権力の任務について報告した。夜10時40分から、同じくスモーリヌイで、第二回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開催された。革命に反対するメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)右派は大会から退場した。ボリシェヴィキが圧倒的多数であり、都市の知識人層を中心とした社会革命党(エスエル)左派、ウクライナ社会民主党などが残った。この大会は26日朝5時まで徹夜で続けられ、ソヴィエト権力の樹立が宣言された。大会は26日夜から再開され、「平和についての布告」(すべての交戦国国民とその政府に対して、ただちに無併合・無賠償の講和の交渉に入るようよびかけ、秘密外交を廃止しする)「土地についての布告」(地主的土地所有は、なんらの補償もなしにただちに廃止される等)が採択された。そののち憲法制定会議が招集されるまでの暫定政府として人民委員会議(ソヴナルコム)が成立した。社会革命党(エスエル)左派は入閣を拒否したため、議長はレーニン。外務人民委員トロツキー。民族問題委員会議長スターリンなど、すべてボリシェヴィキだった。10月26日(露暦)11月8日(グレ暦)革命委員会は午前3時10分、冬宮を占領し臨時政府閣僚を逮捕した。ケレンスキーは25日午前のうちにアメリカ大使館の車で市街へ脱出していた。
(革命の広がり)
この時点では革命の勢力は限定的であり、冬宮を脱出したケレンスキーは、クラスノフ将軍率いるコサック部隊をペトログラード奪回にあたらせようとした。ペトログラード内部でもソヴィエト政権に対する反乱が計画され、第二回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会から退場したメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)右派も10月26日(露暦)救国革命委員会を形成しクラスノフ将軍のペトログラード攻撃と同時に士官学校生の蜂起が行われるよう計画していた。10月29日(露暦)これらの計画は軍事革命委員会の知るところとなった。そこで救国革命委員会はただちに蜂起をするよう促したが、赤衛軍と駐屯軍に鎮圧された。10月30日(露暦)にプルコヴォ高地にてクラスノフ将軍の軍は敗北した。
ドン地方では頭目(アタマン)アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレージンが、ソヴィエト政府に従属しないと宣言した。新体制に不満をもつ人々がドンに流れ込んだ。南ウラル地方のコサックにも反ソヴィエト運動が起こり、それを指揮したのはオレンブルク・コサックの頭目(アタマン)A・I・ドゥートフだった。バイカル湖東岸地方でも、G・S・セミョーノフ率いる反ソヴィエト勢力が起こった。
政府と市の職員は人民委員の命令を拒否してストライキを続け、すべての銀行はボルシェビキへの支払いを拒否し、しかもストライキ中の政府と市の職員には資金を提供していた。鉄道、郵便、電信の従業員もボルシェビキ向けの業務を拒否し、メンシェヴィキ、社会革命党の指導する鉄道労働組合の中央執行委員会はゼネストをもってソヴィエト政権の改組を要求した。新聞の論調は反ボルシェビキ的であり、農民もボルシェビキを支持しなかった。これに対し、人民委員会議(ソヴナルコム)は諸党派の機関紙や新聞を発禁にする措置をとった。ボリシェヴィキ指導部でも分裂が生じ、1917年11月4日(露暦)カーメノフ、ジノヴィエフらが党中央委員を辞任した。非常委員会(チェカ)が創設され、反対派を弾圧した。ボリシェヴィキ以外の党の活動家の多くは逮捕され、1920年の内戦終了時までにボリシェヴィキ以外の党が無害化されていた。また強制収容所には数万~数十万人が拘束された。
このような中、モスクワでは激戦の末1917年11月2日(露暦)にソヴィエト政権が勝利し、戦線でも平和と土地の布告が兵士の支持を集め、ペトログラードに近い戦線から革命支持が起こり、全戦線に広がっていき、鉄道労働組合や政府と市の職員のストライキも下火になっていき、ロシアの中心部に限ってほとんどソヴィエト政権が支配するようになった。
(休戦協定)
11月10日(露暦)11月23日(グレ暦)に招集された第二回全ロシア農民ソヴィエト大会が開催された。農民ソヴィエトの主導権を握っていたのは社会革命党(エスエル)左派であったが、この大会で労働者・兵士ソヴィエトとの合同が決定された。社会革命党(エスエル)左派は人民委員会議(ソヴナルコム)に入り、農業人民委員などの7つのポストを占めた。12月には独立した左派社会革命党を結成する。翌年3月までの期間、人民委員会会議(ソヴナルコム)は連立政権となった。
連立政権となった人民委員会会議(ソヴナルコム)は連合国側の抗議をはねつけて、ドイツに休戦交渉を申し出た。11月22日、ドイツとロシアの休戦協定が調印され、12月2日にはドイツ、ハプスブルク帝国、オスマン帝国、ブルガリアとも休戦協定が締結された。
復員は11月19日から正式にはじまった。
第四編(二十)1917年10月(露暦)コルニーロフ将軍事件に連座して逮捕された人々はブイホフに監禁されていた。11月1日(露暦)コルニーロフ将軍は、参謀総長ニコライ・ドゥホーニン(10月革命でケレンスキーが逃亡後、最高総司令官代行となった)宛に手紙を送る。11月9日(露暦)ドゥホーニン将軍に代わってロシア社会主義民主労働党のクルイレンコが最高総司令官に任命された為、コルニーロフ将軍らブイホフを脱出。
第四編(二十一)ロシア軍とルーマニア輜重隊の劣勢。1917年10月(露暦)脱走兵の増加。11月(露暦)に入ると十月革命のうわさが前線にもきこえてくる。臨時政府転覆の公報が入ると戦線が崩壊しはじめ中隊、大隊ごとに陣地を放棄。12月にはミシカ・コシェヴォイらの十二連隊も陣地を撤退。ミシカ・コシェヴォイらタタールスキイ部落へ帰還。


(用語)

エス・エル(社会革命党)
ロシア語の頭文字をとってエス=エルと略称される。ナロードニキの流れをくみ革命運動家が1901年に結成した。プロレタリアート、勤労農民、社会主義インテリゲンチャ三者の団結を重要と考え、土地私有制の廃止、均分制の実施などを掲げ、主として小農民の支持を受け農民社会主義を希求した。戦術としてはテロリズムによる専制政府の打倒をめざす直接行動を重視した。同じ革命政党であるが、路線の違いから、ボリシェヴィキとも鋭く対立した。
 
ロシア社会民主労働党
1898年にマルクス主義者らによって立ち上げられたが、結成直後に一斉逮捕されて活動不能に陥る。1903年にシベリヤから戻ったレーニンを中心にブリュッセルで第二回大会(事実上の創立大会)を開催し再建された。このとき党組織の問題をめぐって党を職業的革命家に限定しようとするレーニンらボリシェヴィキ(多数派の意)と、開かれた党組織を主張したマルトフらメンシェヴィキ(少数派)が対立し、党は分裂した。その後党内外にはいくつかの潮流の離合集散があったが、1918年3月の第七回党大会で資本主義に融和的なヨーロッパ社会民主主義との絶縁をはっきりさせるために、党名をロシア社会民主労働党からロシア共産党と改め、パリ・コミューンに始まるプロレタリア権力であると自らを位置づけた。
 
カデット(立憲民主党)自由主義的ブルジョアジーや、地主、学者らが支持する政党

十月党(オクチャブリスト)保守的資本家、自由主義穏健派が支持する政党
 
ソヴィエト
ソヴィエトとは協議会とか会議という意味。1905年に繊維工業の中心イワノボ・ボズネセンスクで最初にうまれた労働者・農民の自主組織であった
 
赤軍
旧軍に代わる革命の実力部隊。1918年2月ごろまでは赤衛軍という武装組織しかなかったが、トロツキーによって常備軍として組織されていった。トロツキーは旧軍将校を専門家として採用し(家族を人質にとるなどして強制的に協力させられる場合もあった)これに党の政治委員を監視役とした。

参考資料
「世界の歴史14第一次世界大戦後の世界」責任編集 江口朴郎 中公文庫
「世界の歴史26世界大戦と現代文化の開幕」木村靖二/柴宜弘/長沼秀世 中央公論社
「一九一八年から一九二二年のヴォルガ地方における地方における農民運動」V・V・コンドラシン(半谷史郎・訳)
「世界の教科書シリーズ㉜ロシアの歴史(下)19世紀後半から現代まで ロシア中学・高校歴史教科書」アレクサンドル・ダニロフ/リュミドラ・コスリナ/ミハイル・ブラント 明石書店
「世界文学全集42 ショーロフⅠ」ショーロホフ 横田瑞穂訳 河出書房新社
「世界文学全集43 ショーロフⅡ」ショーロホフ 横田瑞穂訳 河出書房新社
「世界文学全集44 ショーロフⅢ」ショーロホフ 横田瑞穂訳 河出書房新社
「第一次世界大戦」ジャン=ジャック・ベッケール 幸田礼雅訳 白水社
「ロシアの歴史を知るための50章」下斗米伸夫 明石書店
「現代の起点 第一次世界大戦 第二巻 総力戦」山室信一 岡田暁生 小関隆 藤原辰史 岩波書店
「新版 世界各国史22 ロシア史」和田春樹編 山川出版社
「世界の歴史 第19巻 ビザンツと東欧世界」鳥山成人 講談社
「ロシア革命」フランソワ=クサヴィエ・コカン 佐藤亀久訳 白水社
「大世界史 現代を生きぬく最強の教科書」池上彰 佐藤優 文春新書
「最新世界史図説 タペストリー 九訂版」川北稔 桃木至朗監修 帝国書院
「ドイツにおける第一次世界大戦の追悼と顕彰 ‐大戦の敗北と神話‐」中山恵
「ボリシェヴィキ権力と二一/二二年飢饉」梶川伸一
「ミハイル・ショーロホフ『静かなドン』におけるコサック―その主体化と解体―」
平松 潤奈
「ロシア・カザークと遊牧民」中村仁志
「ロシアと第一次世界大戦の原因」今野茂充
「ソ連の歴史 ロシア革命からペレストロイカまで」木村英亮 山川出版社
「興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地」土肥恒之 講談社
「世界の戦争・革命・反乱・総解説」自由国民社
「図説 帝政ロシア 光と闇の二○○年」土肥恒之 河出書房新社
「シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争」麻田雅文 中公新書
「1914年 100年前から今を考える」海野弘 平凡社新書
「図説 ソ連の歴史」下斗米伸夫 河出書房新社
「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社
「現代の起点 第一次世界大戦 第一巻 世界戦争」山室信一 岡田暁生 小関隆 藤原辰史 岩波書店
「憎悪の世紀 上巻」ニーアル・ファーガソン 仙名紀訳 早川書房
「帝国の興亡(下)」―ロシア帝国とそのライバル ドミニク・リーベン 袴田茂樹監修 松井秀和訳 日本経済新聞社
「静かなドン1~8」ショーロホフ 横田瑞穂訳 岩波文庫
「暗殺が変えた世界史 下 ニコライ二世からチャウシェスクまで」ジャン=クリストフ・ビュイッソン 神田順子訳 清水珠代訳 濱田英作訳 原書房

 
 
 
 
 

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