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「静かなドン」小説内の出来事と歴史上の動き。第二巻第五編

小説「静かなドン」内の出来事を太字、歴史上の動きを普通字で記しています。
ロシアでは1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までユリウス暦(露暦)が使われており、ユリウス暦(露暦)に13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できます。
ロシアでは1917年の10月革命から3ヶ月後にボリシェヴィキ政府の政令により、グレゴリオ暦が導入し1918年1月31日の次の日は、2月14日となっています。
この記事では、ロシア国内の出来事は1918年1月31日までは基本的にユリウス暦(露暦)とし、グレゴリオ暦の部分は(グレ暦)と表記しています。
1918年2月14日以降はロシア国内の出来事もグレゴリオ暦になります。
グレゴリオ暦の導入はボリシェヴィキ政府によってなされたので、1918年2月14日以降も反ボリシェヴィキ政府の間ではユリウス暦が使われていたようで、小説のなかでもそのような記述があります。
随時更新しています。

第五編(一)1917年秋、戦線からコサックたちが帰還してきはじめた。冬には国内戦が始まってくるのだが、ドンは静かだった。
第五編(二)グリゴーリィ・メレホフは戦功より1917年1月(露暦)に少尉に任官していた。10月(露暦)には中隊長。コサック自治主義者エフィム・イヴァーヌィチ・イズワリン中尉の影響を受ける。11月(露暦)にドン地方赤衛軍の最初の組織者であるボドチョールコフに会う

歴史上の動き
(白衛義勇軍結成)
1917年11月ノヴォチェルカッスクに元最高総司令官ミハイル・ワシーリエヴィチ・アレクセーエフ将軍が到着し、反ソヴィエト義勇軍を構成する。冬のはじめまでに、約2000名の将校がノヴォチェルカッスクにひそかに集結した。また、ミリュコフ、ストルーベ、ロジャンコなどの政治家たちも加わった。政治家らと将軍たちの会議で軍隊創設、管理体制の原則が定められ、義勇軍総司令官にはブイホフから脱走してきたコルニーロフ将軍が指名された。民政権と対外政策はアレクセーエフ将軍が管理することになった。ドン州の統治はカレージンに任された。白色運動が発足し、その基本的思想は、将来の最終的統治形態を先決めせず、統一かつ不分離ロシアを復活させ、ボリシェヴィキ完全絶滅まで容赦なく闘うことだった。当初白色運動は厳密な志願制と無報酬の原則で構成され、志願兵は4か月間勤務する署名を提示し、司令官に絶対服従を約束した。1918年から兵士や将校たちに金銭的給与が支給され始めた。その資金は企業家の寄付金と中央銀行の地方支店からでており、1918年には軍票も発行され始めた。
 
第五編(三)ノヴォチェルカッスクには反ボルシェビキの将軍たちが集まっていた。1917年11月2日(露暦)ミハイル・ワシーリエヴィチ・アレクセーエフ将軍がノヴォチェルカッスクに到着。ドンコサックのアタマン(頭目)アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレージンと義勇軍の編成にとりかかる。11月下旬(露暦)にはかつてコルニーロフ将軍の反乱に参加した諸将も到着。12月2日(露暦)義勇軍ロストフ占領。12月6日(露暦)コルニーロフ将軍到着。
第五編(四)イリヤ・ブンチューク、モスクワからノヴォチェルカッスクの実家に到着。一日おいてロストフ入り。ロストフの党委員会を訪ねる。
第五編(五)ブンチュークは党の委員会から彼の部下として差し向けられてくる労働者たちの教育にあたる。

歴史上の動き
(労働者統制令)
1917年11月14日ソヴィエト政権は労働者統制令を発した。これは一挙に大工業企業を国有化しても、労働者に経営や技術面等の管理能力がないことは明らかなので、ひとまず企業を所有者の手に残し、企業家の専門的技能を利用して生産を続行するとともに、労働者統制の導入によって労働者に経営と生産技術を習得させようとするものだった。しかし、この政策は実際には成功しなかった。理由としては、統制委員会の干渉のゆきすぎ、企業間の設備・資材の取り合いによって経営が行き詰まり、企業家の公然とした反攻やサボタージュ・逃亡により没収が進んだためである。1918年6月28日には布告によって主な工業企業は国有化された。1917年12月2日最高国民経済会議が設立され、国民経済の総合的計画化、企業資産の没収・徴発にあたることとなった。しかし実際には混乱のなかで整然とした機能を果たすことは出来ず、一般的な統制を行うにとどまった。1917年12月14日銀行国有化令によってすべての私立銀行を国立銀行に併合した。1918年1月21日には国債の破棄を布告、4月18日には債権・株式の利子・配当支払いの停止を確認し、登録を義務づけた。ソヴィエト政権によって、通貨の統制と生産の統制がなされた。鉄道は大戦中に実質的に国有化されており、商船隊が1918年1月23日に、外国貿易が4月22日に国有化された。
第五編(六)1917年11月25日(露暦)ノヴォチェルカッスクからロストフへむけてカレージンの軍隊が集結された。白衛軍と赤衛軍が激突。ブンチュークも機関銃兵を率いて戦闘に参加。
第五編(七)ロストフ近郊および市街戦。1917年12月2日(露暦)赤衛軍、ロストフ市街から退却。ブンチューク、チフスにかかる。

歴史上の動き 
(憲法制定会議)
1917年11月12日から、ロシア史上はじめての普通選挙である憲法制定会議の選挙が全国で行われた(新憲法制定の為に自由選挙によって議会を招集することは臨時政府の公約だった。戦争中ということもあって、臨時政府はなかなか選挙を実施できず、ボリシェヴィキはそれを非難してきた)投票率は50パーセント弱であった。選挙の結果、第一党は社会革命党中央派(支持基盤 農民 農業地帯)第二党ボリシェヴィキ(支持基盤 都市部労働者 守備隊の兵士 ペトログラードをはじめとするロシア中心部)またウクライナ、カフカース、中央アジアでは民族主義政党が圧勝した。
1918年1月5日(露暦)1月18日(グレ暦)タヴリーダ宮殿で憲法制定会議が開催された。第一党の社会革命党中央派が議席の過半数を占めていたため、人民委員会議(ソヴナルコム)が提案した宣言は否決され、社会革命党中央派が土地基本法などを提出したが、6日に憲法制定会議は人民委員会議によって解散させられた(レーニンはもともと一日で解散するつもりで、会議ではボリシェヴィキがさっさと退場してしまったあと、残った議員達が土地・講和・政体について議事をつづけていたところ、深夜4時過ぎ、警護隊長が「歩哨は疲れた」といって議員たちを追い出し、憲法制定会議は解散となった)
ロシア初の自由選挙の結果を踏みにじるこの行為が、諸政党に反ボリシェヴィキの大義を与えることとなる。
10日には、同じくタヴリーダ宮殿で第三回労働者・兵士ソヴィエト大会が開かれ、13日に開催された第三回全ロシア農民ソヴィエト大会と合同した。ここでロシアが「社会主義ソヴィエト共和国」であることがはじめて宣言された。
ソヴィエト政府は1918年1月中旬、1万人規模の軍隊の創設に成功し、ドン州領域に入った。コサック共同体の大部分はソヴィエト政府に対して友好的中立の立場をとっており、「平和についての布告」はコサックからの支持を得ており、住民の一部は武力的にも赤軍を支持していた。
第五編(八)1918年1月(露暦)タタールスキイ部落。1月8日(露暦)フリストニャとイワン・アレクセーヴィチ、カーメンスカヤで開催される帰還兵の大会に部落代表として出席するため部落を出発。グリゴーリィ・メレホフはカーメンスカヤで下宿していた。1月10日(露暦)帰還兵大会、炭鉱労働者代表がコサック帰還兵らにボルシェビキ、労働者を同盟し反カレージン、反白衛軍に加わるよう呼びかける。コサック軍事革命委員会が選出されボドチョールコフが議長、クリヴォシュルイコフが書記となり、反カレージンを糾合しノヴォチェルカッスクに積極的攻勢をかけるよう一決する。
第五編(九)1918年1月11日(露暦)カレージンの命により、帰還兵大会の出席者全員を逮捕するため第十コサック連隊、カーメンスカヤ到着。しかし兵士たち命令を拒否。1月13日(露暦)ドン政府代表団、カーメンスカヤ入り。軍事革命委員会と協議。軍事革命委員会代表、ノヴォチェルカッスクへ協議の為に向かう。
第五編(十)軍事革命委員会とドン政府、カレージン、ノヴォチェルカッスク地方政庁ホールにて協議。
第五編(十一)軍事革命委員会の要求否決される。カーメンスカヤ付近にて白衛軍と赤衛軍攻防。
第五編(十二)エフィム・イヴァーヌィチ・イズワリン中尉、カーメンスカヤにおけるコサック兵士大会を前にひかえて連隊から逃亡。グルボーカヤ攻防戦。1月21日(露暦)グリゴーリィ・メレホフ、第二予備隊の二個中隊とアタマン兵一個中隊からなる部隊を指揮。グリゴーリィ・メレホフの中隊にブンチューク、アンナ・ポグートコら機関銃兵として参加。赤衛軍攻防戦に勝利するが、捕虜を虐殺するポドチョールコフに対しグリゴーリィ・メレホフは非常な疑問を抱く。

歴史上の動き
(ブレスト=リトフスク講和交渉・モスクワ遷都)
同盟諸国とロシアとの休戦協定が結ばれた後、ドイツはブレスト=リトフスク講和交渉には応じたが、「平和についての布告」(すべての交戦国国民とその政府に対して、ただちに無併合・無賠償の講和の交渉に入るようよびかけ、秘密外交を廃止しする)の原則は認めず、領土に関しても厳しい条件をつけた。1918年1月8日レーニンは単独講和の即時締結を提案したが、ボリシェヴィキ指導部にはヨーロッパでの社会主義革命を期待する傾向が強く、受け入れられなかった。レーニンは講和交渉引き延ばしの方針で党内の合意を図った。しかし、2月13日ドイツ軍は攻撃再開を決定し、18日から攻勢に出た。23日にドイツはウクライナとバルト地方の独立や賠償金の支払いを内容とする新たな講和提案を打ち出した。レーニンの強い要求でドイツの提案の受諾が決定され3月3日ブレスト=リトフスク講和条約が締結され、旧ロシア帝国からフィンランド、バルト地方、ポーランド、ウクライナが分離された。講和にあわせて、よりペテログラードからより安全なモスクワへの遷都が行われた。ボリシェヴィキと連立政権を組んでいた左派エスエル党はブレスト=リトフスク条約のドイツとの単独講和と農村からの穀物徴発に反発し、1918年末までに連立政権から離脱した。
第五編(十三)負傷したグリゴーリィ・メレホフは養生のためタタールスキイ部落に帰還する。パンテレイ・プロコーフィエヴィチ、グリゴーリィを迎えに行くため1918年1月28日(露暦)ミレローヴォに到着。パンテレイ・プロコーフィエヴィチ、ペトロはカレージン支持しているおり、グリゴーリィ・メレホフとは立場意見が違うものの、久しぶりの家族の再会に感動。おみやげをわたしてほっこりした後、やはりペトロ、パンテレイがカレージン・白衛軍支持。グリゴーリィ・メレホフは革命委員会・赤衛軍・ボルシェビキ支持と意見が対立する
歴史上の動き 
(赤軍の創設、カレージンの自殺)
1918年1月コルニーロフ将軍、デニキン将軍ら、ロシア南西部のドン川とクバン川周辺地域でコサック軍を率いて赤衛軍と衝突。
1月15日人民委員会議の法令(志願制労農赤衛軍組織関するSNK法令)により、労働者・農民赤軍が創設。1月29日人民委員会議の法令により赤色海軍が創設された。当初は志願制と労働者のみで構成されたが、規律が低く各地で敗退したため、1918年7月に男性18歳から40歳までを対象とした一般兵役義務に関する法令が発布され、兵役義務の登録、軍事訓練の組織と実施、軍事役務に適する住民の動員を行う軍事網が全国に作られた。赤軍兵員数は1918年夏~秋で30万人、1919年春150万人、1919年秋300万人、1920年500万人である。1917年から1919年にかけて赤軍指揮要員の充実の為に、中級指揮官養成のために短期教程や学校、高等軍事教育機関、参謀本部アカデミー、砲兵、軍事医療、軍事運営、海軍、軍事技術の各アカデミーが作られた。1919年1月までに赤軍に旧ロシア帝国軍の将校約16万5千人が加わった。1918年4月には陸軍と海軍の各部隊に指揮官を監視し、赤軍兵士としての政治教育を実施するための軍事コミサール(赤軍に派遣された軍事政治委員)が党から派遣されるようになった。1918年9月には戦線および方面軍の部隊統一管理体制が創設された。各戦線(方面軍)の長は指揮する戦線(方面軍)の司令官と2名の政治コミサールから成る革命軍事評議会(RVS)が指定された。全艦隊と陸軍の各組織のRVSを指揮するのは、トロツキーを指導者とする「共和国RVS」となった。軍の統制のため、裁判や捜査なく裏切り者や臆病者を射殺する非常権限を有するRVSの代表が戦線のもっとも過酷な地域へ派遣された。1918年11月には労働者農民国防会議が設立され、レーニンが長となった。
1918年1月29日にカレージンが自殺し義勇軍の活動拠点はクバンに移された。
第五編(十四)ヴョーシェンスカヤの町に出かけたパンテレイ・プロコーフィエヴィチは、カレージンの死を知る。
第五編(十五)カレージン軍の優勢により、ドン革命委員会はミレローヴォへ敗走。1918年1月19日(露暦)ドン革命委員会がペトログラードソヴェトに送った宣言文により、救援の赤衛軍部隊が到着。その支援にてチェルネツォフ大佐の部隊を殲滅。革命委員会はズヴェーレヴォ、リハヤを占領。赤衛軍と革命委員会は敵をノヴォチェルカッスク方面に圧迫。タガンログ方面でも赤衛軍が勝利したため、ソヴェト軍部隊の勝利は確定する。1月28日(露暦)コルニーロフ将軍はカレージンに電報を送り、義勇軍がロストフを放棄し、クバン方面へ退却していることを報ずる。1月29日(露暦)ドン軍事政府委員会緊急会議、ここでカレージンはコルニーロフ将軍からの電報やノヴォチェルカッスク北部の防衛線での敗況に接し、軍アタマンの地位を辞退することを決意。ドン政府総辞職し政権を市会へ引き渡すことを決議。カレージン自殺。

歴史上の動き
(露暦廃止・市民のボリシェヴィキ化)
ボリシェヴィキ政府の政令により、露暦廃止。グレゴリオ暦に切り替え。1918年1月31日の次の日は、2月14日となった。革命記念日(11月7日)やメーデーを祭日とした。これらの祭日には、ペトログラードやモスクワにおいて大規模なプロパガンダ・イベントが開催され、野外劇やフェスティバルを通じて新しい権力の浸透が図られた。都市部では、革命や共産党権力を表象する銅像の建立や、新たな倫理観(衛生管理の概念など)の人々への定着が急がれた。モスクワを中心とする都市部では、労働を賛美しそれに動員することを通じてソヴィエト市民意識の涵養が促され、パレードへの参加などが奨励された。革命直後から若年層と子供たちのボリシェヴィキ化も企図されており、1918年には党の青年組織であるコムソモール(共産主義青年同盟)の原型が創設され、1922年には少年少女を対象としたピオネール(10歳から15歳までの少年少女を対象とする児童組織,少年団。ピオネールのの中にはすべての子どもの模範となることコムソモールに入る準備をすることが掲げられていた)も結成された。都市の外部でも映画・演劇・読書・読み聞かせ・ポスターなどを駆使してのボリシェヴィキ文化の拡大と浸透が図られた。
第五編(十六)ブンチュークは三週間熱にうかされていた。1917年12月24日(露暦)ブンチュークは意識を回復。アンナ・ポグートコはブンチュークを看病するためスターリンググラードにいたが、他のブンチュークの部下たちは各地に分かれていた。1月中旬(露暦)ブンチュークとアンナ・ポグートコはスターリンググラードを出て、ヴォロネジへ向かう
第五編(十七)1918年1月16日(露暦)ブンチュークとアンナ・ポグートコはヴォロネジに到着。2日ばかりの滞在ののちミレローヴォへ出発。さらにグルボーカヤへ。チェルネツォフ大佐軍との戦闘に機関銃隊を率い参加。アンナ・ポグートコはルガンスクへ宣伝活動に赴くことなり、ブンチュークと別れる。
第五編(十八)カレージンの死後、ノヴォチェルカッスク政庁は政権をドン軍兵団長ナザロフ将軍に引き渡す。1918年1月29日(露暦)ナザロフ将軍コサック軍アタマンに選出される。クラスノシチョーコフ将軍の第六ドン・コサック連隊、ルーマニア戦線より行軍隊形でノヴォチェルカッスクに到着。途中、ボリシェヴィキと交戦。義勇軍、白衛軍の士気を高める。しかし2日後には連隊はボルシェビキの宣伝活動により、陣地を放棄しているとの報が入る。コルニーロフ将軍はロストフを放棄しオリギンスカヤ村に退却する。コルニーロフ連隊にはエフゲニー・リストニツキイ大尉も参加していた。1918年3月11日(グレ暦)までに義勇軍はオリギンスカヤ村周辺に集結。3月13日(グレ暦)ドン軍アタマン、ポポフ将軍がノヴォチェルカッスクからオリギンスカヤ村に退却してくる。コルニーロフ将軍はポポフ将軍に共にエカテリノダル、クバン方面に進出するよう提案するが、ポポフ将軍は拒否。兵力は分散される。                   
第五編(十九)2月10日(?)革命委員会ゴルボフ、ブンチュークらノヴォチェルカッスク占領を目的にメリホーフスカヤ村に到着。ゴルボフはノヴォチェルカッスクに入り、ナザロフ将軍を恫喝。ブンチュークはロストフでアンナ・ポグートコと再会。
第五編(二十)3月(グレ暦)、ブンチュークはドン革命委員会革命裁判刑場長に就任。反革命者の処刑に従事する。3月末ウクライナの白衛軍やドイツ軍に負けたウクライナの赤軍がロストフに到着。市中で殺人、強盗、徴発が行われ始める。

歴史上の動き 
(外国の軍事干渉、シベリア派兵)
1918年3月3日のブレスト=リトフスク講和条約の成立によりロシア北方の不凍港ムルマンスク、アルハンゲリスクで荷揚げされている軍需物資(連合国側だったロシア帝国に英仏などが援助物資として送ったもの)が、ボリシェヴィキの手からドイツにわたるのを恐れ、イギリス軍130名が1918年3月ムルマンスクに上陸。また1917年12月から英仏はウラジオストックにある武器弾薬(連合国側だったロシア帝国に英仏などが送ったもの)を確保接収することをアメリカと日本に要請。1918年4月日本軍がウラジオストックに上陸。アメリカ、日本共に国内に海外派兵を慎重視する勢力があったため段階的に両国のウラジオストック・シベリア派兵が行われていった。
 
第五編(二十一)4月17日、第二社会主義軍の赤軍チラスポリスキー部隊、ウクライナ反乱軍およびドイツ軍との戦いに敗北し、ヴォロネジ方面へ退却中にセトラコフ部落にて略奪暴行活動を行う。近隣部落のコサックたちは部隊を編成しミグリンスカヤ村にて赤軍部隊を攻撃。赤軍部隊は全滅。4月20日過ぎ、近隣コサック村の多くがボリシェヴィキ政権から独立した管区を作りはじめアタマンにはエランスカヤ村のザハール・アルファーロフが選ばれた。
歴史上の動き 
1918年4月17日、コルニーロフ将軍はクバーニ地方(エカテリノダール地方)で行われた赤軍との戦闘で、弾丸を頭部に受け戦死した。後継にはデニキン将軍が就いた。1918年4月ドンにてソヴィエト政権の政策に不満をもつコサックの大きな反乱がおこり。デニキン将軍率いる義勇軍はドン地方に戻り、ドン・コサックの反乱軍と合流した。しかし、これらの反乱は住民からの大衆的な支持を受けることはなく、コサックの反乱は鎮圧され、反ボリシェヴィキの中心はヴォルガか東シベリア地域の富農と、南ロシアのコサックに受け継がれた。ロシア内戦の主要戦線は東部と南部戦線となっていく。
第五編(二十二)ミグリンスカヤ村にて赤軍部隊全滅の報を受け、タタールスキー部落の赤軍に参加していたものは動揺する。断食斎の第六週目の水曜日、ワレートとミシカ・コシェヴォイは村を脱出するが、イワン・アレクセーヴィチ、フリストニャ、グリゴーリィ・メレホフは村に残る。
第五編(二十三)タタールスキー部落の集会が開かれコサックが一同に会する。ヴョーシェンスカヤ村のソルダートフ中尉はタタールスキー部落も他の村にならってボリシェヴィキ政権から独立し復員兵の部隊を編成するよう要請する。これに応じミロン・グリゴーリエヴィチ・コールシュノフが部落のアタマンに選ばれる。隊長にはペトロ・メレホフが選ばれミグリンスカヤ部落救援に出かけることになった。
第五編(二十四)タタールスキー部落復員兵部隊はカルギンスカヤ村に到着。ペトロは村のアタマンである。フョードル・ドミートリエヴィチ・リホヴィードフに会うが甘くみられてミグリンスカヤ村には行かなくてもいいように言われる。ペトロひきいるタタールスキー部落復員兵部隊は戦闘に参加したくない本音があったので喜んで部落へ帰る。大精進節最後の土曜日、ヴョーシェンスカヤ村からミロン・グリゴーリエヴィチ・コールシュノフのもとに使者がやってくる。ナゴリンスカヤ村付近を行軍中のポドチョールコフ率いる赤軍部隊を攻撃するよう命令をもってきたのだった。復活祭第一目にコサック達は精進おとしをして部落を出発。部落の老人たちは勇み立って行軍に参加するが若いコサックたちは仕方なしという風だった。
第五編(二十五)アンナ・ポグートコ戦死する。
第五編(二十六)アンナ・ポグートコの死に虚脱状態に陥ったブンチューク。クリヴォシュルイコフの要請で、北部地方遠征隊のアジテーターとして5月1日に出発。ドン・ソヴェト政庁は危機に陥っていた。ウクライナ方面からのドイツの占領軍の侵攻により下流地帯の村々や軍管区で反革命的反乱が勃発。ジモーヴニク地方にはコルニーロフ将軍に味方しているドン軍アタマンであるポポフの軍がノヴォチェルカッスクを脅かしていた。これに対しポドチョールコフは、北部地方で復員コサックの三四個連隊を動員し、それをもってドイツ軍および下流地帯の反革命に当たらせるため北部への出動を決意。
第五編(二十七)北部地方遠征隊はドン軍管区の奥地へ分け入り活動するが部落住民は非協力的である。
第五編(二十八)カラーシニコフ部落にて北部地方遠征隊は地元コサック勢力に降伏。コサック同士、昔の戦友仲間だったものも多かった。武装解除された北部地方遠征隊はポノマリョーフ部落に送られた。5月10日ポドチョールコフの逮捕に参加した部落の代表者たちからなる軍法会議がひらかれ、ポドチョールコフとクリヴォシュルイコフは絞首刑、他の隊員たちは銃殺と決まる。
第五編(二十九)北部地方遠征隊の隊員たちは小さな倉庫の中に閉じ込められ、翌朝処刑される運命に今までの人生を振り返るのだった。
第五編(三十)ペトロ・メレホフ少尉にひきいられたタタールスキー部落のコサック隊は5月11日の夜明けがたポノマリョーフ部落へ到着した。朝6時ポドチョールコフらの処刑が始まる。グリゴーリィ・メレホフはポドチョールコフと再会する。ポドチョールコフ、クリヴォシュルイコフは絞首刑に処され、他の隊員たちは銃殺される。
第五編(三十一)タタールスキー部落を脱走したミシカ・コシェヴォイとワレートはニジネ・ヤブロノーフスキー部落付近でコサックに捕まる。ワレートは射殺され、ミシカ・コシェヴォイはカルギンスカヤ村の軍法会議で改心の見込みありということで笞刑ののちに戦線に送られる。
 

(用語)

エス・エル(社会革命党)
ロシア語の頭文字をとってエス=エルと略称される。ナロードニキの流れをくみ革命運動家が1901年に結成した。プロレタリアート、勤労農民、社会主義インテリゲンチャ三者の団結を重要と考え、土地私有制の廃止、均分制の実施などを掲げ、主として小農民の支持を受け農民社会主義を希求した。戦術としてはテロリズムによる専制政府の打倒をめざす直接行動を重視した。同じ革命政党であるが、路線の違いから、ボリシェヴィキとも鋭く対立した。
 
ロシア社会民主労働党
1898年にマルクス主義者らによって立ち上げられたが、結成直後に一斉逮捕されて活動不能に陥る。1903年にシベリヤから戻ったレーニンを中心にブリュッセルで第二回大会(事実上の創立大会)を開催し再建された。このとき党組織の問題をめぐって党を職業的革命家に限定しようとするレーニンらボリシェヴィキ(多数派の意)と、開かれた党組織を主張したマルトフらメンシェヴィキ(少数派)が対立し、党は分裂した。その後党内外にはいくつかの潮流の離合集散があったが、1918年3月の第七回党大会で資本主義に融和的なヨーロッパ社会民主主義との絶縁をはっきりさせるために、党名をロシア社会民主労働党からロシア共産党と改め、パリ・コミューンに始まるプロレタリア権力であると自らを位置づけた。
 
カデット(立憲民主党)自由主義的ブルジョアジーや、地主、学者らが支持する政党

十月党(オクチャブリスト)保守的資本家、自由主義穏健派が支持する政党
 
ソヴィエト
ソヴィエトとは協議会とか会議という意味。1905年に繊維工業の中心イワノボ・ボズネセンスクで最初にうまれた労働者・農民の自主組織であった
 
赤軍
旧軍に代わる革命の実力部隊。1918年2月ごろまでは赤衛軍という武装組織しかなかったが、トロツキーによって常備軍として組織されていった。トロツキーは旧軍将校を専門家として採用し(家族を人質にとるなどして強制的に協力させられる場合もあった)これに党の政治委員を監視役とした。

参考資料
「世界の歴史14第一次世界大戦後の世界」責任編集 江口朴郎 中公文庫
「世界の歴史26世界大戦と現代文化の開幕」木村靖二/柴宜弘/長沼秀世 中央公論社
「一九一八年から一九二二年のヴォルガ地方における地方における農民運動」V・V・コンドラシン(半谷史郎・訳)
「世界の教科書シリーズ㉜ロシアの歴史(下)19世紀後半から現代まで ロシア中学・高校歴史教科書」アレクサンドル・ダニロフ/リュミドラ・コスリナ/ミハイル・ブラント 明石書店
「世界文学全集42 ショーロフⅠ」ショーロホフ 横田瑞穂訳 河出書房新社
「世界文学全集43 ショーロフⅡ」ショーロホフ 横田瑞穂訳 河出書房新社
「世界文学全集44 ショーロフⅢ」ショーロホフ 横田瑞穂訳 河出書房新社
「第一次世界大戦」ジャン=ジャック・ベッケール 幸田礼雅訳 白水社
「ロシアの歴史を知るための50章」下斗米伸夫 明石書店
「現代の起点 第一次世界大戦 第二巻 総力戦」山室信一 岡田暁生 小関隆 藤原辰史 岩波書店
「新版 世界各国史22 ロシア史」和田春樹編 山川出版社
「世界の歴史 第19巻 ビザンツと東欧世界」鳥山成人 講談社
「ロシア革命」フランソワ=クサヴィエ・コカン 佐藤亀久訳 白水社
「大世界史 現代を生きぬく最強の教科書」池上彰 佐藤優 文春新書
「最新世界史図説 タペストリー 九訂版」川北稔 桃木至朗監修 帝国書院
「ドイツにおける第一次世界大戦の追悼と顕彰 ‐大戦の敗北と神話‐」中山恵
「ボリシェヴィキ権力と二一/二二年飢饉」梶川伸一
「ミハイル・ショーロホフ『静かなドン』におけるコサック―その主体化と解体―」
平松 潤奈
「ロシア・カザークと遊牧民」中村仁志
「ロシアと第一次世界大戦の原因」今野茂充
「ソ連の歴史 ロシア革命からペレストロイカまで」木村英亮 山川出版社
「興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地」土肥恒之 講談社
「世界の戦争・革命・反乱・総解説」自由国民社
「図説 帝政ロシア 光と闇の二○○年」土肥恒之 河出書房新社
「シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争」麻田雅文 中公新書
「1914年 100年前から今を考える」海野弘 平凡社新書
「図説 ソ連の歴史」下斗米伸夫 河出書房新社
「図説 ロシアの歴史」栗生沢猛夫 河出書房新社
「現代の起点 第一次世界大戦 第一巻 世界戦争」山室信一 岡田暁生 小関隆 藤原辰史 岩波書店
「憎悪の世紀 上巻」ニーアル・ファーガソン 仙名紀訳 早川書房
「帝国の興亡(下)」―ロシア帝国とそのライバル ドミニク・リーベン 袴田茂樹監修 松井秀和訳 日本経済新聞社
「静かなドン1~8」ショーロホフ 横田瑞穂訳 岩波文庫
「暗殺が変えた世界史 下 ニコライ二世からチャウシェスクまで」ジャン=クリストフ・ビュイッソン 神田順子訳 清水珠代訳 濱田英作訳 原書房

 
 
 


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