見出し画像

「夜明け前」資料集②地租改正と封建的諸制度の撤廃

「地租改正と封建的諸制度の撤廃」
1869(明治2)年1月 諸道の関所廃止
1871(明治4)年1月 寺社の所領を奉還させる
1871(明治4)年4月 戸籍法公布
1871(明治4)年5月 一般農民の米販売を許可
1871(明治4)年7月 廃藩置県(全国の土地が新政府直轄領になり、地租改正の準備が整う)
1871(明治4)年9月 田畑勝手作の禁(でんばたかってづくりのきん)が解かれた(田畑で自由に作物を作る事が認められ、売りやすい作物を自由に育ててさせ、税金物納(主に米)でなく、作物換金による税金金納の下地を作った)
1872(明治5)年2月 戸籍法による統一的な戸籍を編成。
田畑永代売買の禁止令が解かれた(土地売買が認められ、7月には土地の所有を証明する地券が政府から発行され、地租改正に向け課税基準となる地価計算を行う為の土地所有権整理が行われた)
1872(明治5)年4月 庄屋・名主・年寄を廃止し、戸長・副戸長をおく
1872(明治5)年8月 田畑貢租米をすべて金納とすることを許可。
      諸道の伝馬・助郷を廃止する(宿駅制度の廃止)
1872(明治5)年10月 人身売買を禁ずる
1873(明治6)年7月 地租改正条例を布告(封建的税制の撤廃)

「戸籍法(1871(明治4)年4月)」
統一的な国民支配の為、国民一人一人の姓名・住所・年齢・生死などが政府により掌握される必要があった。従来は士農工商の身分毎に戸籍を別にしていたが、区域ごとに改める為、
数ヵ村をまとめて小区とし、いくつかの小区をまとめて大区とする行政区域が定められた。明治4年の戸籍法が、明治5年壬申の年に全国一斉に施行されたので、この戸籍を壬申戸籍という。
大区には区長。小区には戸長が置かれた。明治5年4月には従来の町村役人である庄屋・名主・年寄などは全て廃止され、戸長・副戸長・用掛りなどと改められた。これは単なる名称の変更ではない。以前の村は現今の大字(おおあざ)に相当する狭い区域の住民共同体であり、庄屋・名主はその区域の住民自身が選んだ共同体の代表という性質があった。それに対し区長・戸長・副戸長らは原則的に上から任命されるものであり、法制上は共同体の代表ではなく、政府の最末端の行政担当者であった。明治6年末から、区長・戸長の身分は官吏に準ずるとされ、刑法上も官吏同様となった。

「地租改正」
江戸時代の税制は米そのほかの現物納であった為、豊凶による増減や米相場の変動で次年度の予算が成立しなかった。また米納だと収納・保管・輸送などに不便であり、市街地が無税で、工・商の税が軽く、武士が無税であるという点で非常に不平等であり、また幕領や各藩ごとに地租が不統一(5公5民、6公4民など)であった。
近代国家では正確な歳入出予算をたてることが必要な為、大胆な税制改革が必要であった。
1871(明治4)年7月 廃藩置県。1871(明治4)年9月 田畑勝手作の禁(でんばたかってづくりのきん)を解き作付制限の廃止を行い、1872(明治5)年2月田畑永代売買の禁止令が解かれ、7月には土地の所有を証明する地券が政府から発行され、1873(明治6)年7月地租改正条例を布告された。
以前の年貢は、土地の収穫を基準として、田租は米納、畑租は現物納または代金納であったが、新地租は土地の価格を政府が決定し、地価を基準として田畑とも金納となり、税率は地価の3%(1877(明治10)年2.5%に減租)となった。また、以前の年貢は村を単位にその村の石高に応じてかけられ、村内の滞納者の分も五人組または村全体の連帯で納めていたのを、新地租では土地所有者個人が納税者となり連帯責任制もなくなった。なお、この土地改革では小作制度には全く手が付けられず、土地所有権はその土地を耕作している小作人に与えられるのではなく、地主の所有権が確認された。小作農が地主に物納するという封建的関係は残存し、小作農は田でいえば収穫の6割以上もの小作料を現物で地主に収めねばならなかった。さらに明治政府は、小作料は地租の源泉であるから、小作人は決して小作料を滞納してはならないと、地主の権益を国家権力で保護した。以前の幕府や諸藩は領主と耕作農民との中間に地主があって、耕作農民を搾取するのを嫌ったが、地租改正により地主が国家に保護されることになった。国家権力の最末端である区長・戸長も地主階級から出た。小作人はより窮乏化した。米価は明治時代には一般的傾向として毎年高くなったので、小作料を現米でとってそれを売り、現金の定額地租を納める地主の取り分は、米の値上がりと共に増大した。

「地券」
土地の所有を公証し、納税義務者が明示するもの。土地の売買や、担保にする際の基礎になった。地券台帳は役所で管理され、土地所有者に地券が交付された。
地券の表には、土地の所在、地目、面積、地価、所有者などが表記され、交付する府県の印と、大蔵省が各府県に配布した「地券之証」印がおされ、上部には地券台帳との割り印があった。譲渡や売買で土地の所有者に変更がある場合は、地券台帳を訂正し、新たな土地所有者に新しい地券が発行された。
1885(明治18)年に「登記法」が成立し、登記簿に役割を譲るまでおよそ1億5000万枚の地券が発行された。地券台帳も1884(明治17)年には「土地台帳制度」に引き継がれ、1960(昭和35)年には「土地台帳制度」と「登記簿」が統一されて現在にいたる。
現在の登記簿においても、「地租改正」時の地券台帳や地券を作成するためにおこなわれた。測量にもとづく記載が残っていて、登記簿と実際の地形が一致しない事態が頻出している。

「入会地(いりあいち)」
村や集落が生活のために共同で使っていた土地のこと
地租改正に伴い、地券による土地所有の確認が行われ、所有権が曖昧な土地については、政府が保有する国有地となった。入会地も所有権が曖昧だったため、その多くが国有地となってしまう。以前のように入会地を自由に使うことができなくなった。
幕府時代には木曽の明山(開放林)で、住民は建築・土木用の雑木や薪炭材・柴草などを採ることが出来、停止木と呼ばれる木曽五木とけやきの伐採のみが禁止されていたが、停止木に準ずる有用樹の留木(栗・松・桂)は許可制で採取可能だった。
しかし、土地所有権確定の流れの中で、木曽の明山も地盤そのものを共同で所有しているのではなく、その土地にはえる草木を利用していたとされ国有化されてしまう。一旦国有にされると、そこの一木一草を採ることも許されなくなった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?