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武蔵野東学園を守る会ー署名活動趣意書(4)東高等専修学校の普通高校転換構想と「混合教育」

第3節 当学園の「混合教育」という建学の精神が打ち砕かれるおそれがあること

1 武蔵野東学園(当学園)の建学の精神「混合教育」

(1) 混合教育の本質

 寺田理事長は、『物語』(286〜291頁)の中で、「混合教育の本質」につき、おおむね、次のように述べる。

 混合教育は、教育理論があって、生まれたものではない。北原キヨ先生が、最初に自閉症児を受け入れたとき、この子たちは、いずれ健常者に囲まれた社会に出るのならば、今から健常児たちの間に挟み込んで、早くからそれを体験させるのがよい、このように考えて始めた実践のたまものである。
 武蔵野東学園(当学園)の教育の現場には、健常児たちの優しい思いやりに囲まれ、その適度な刺激を受けて自立に向かう自閉症児がいて、また、自閉症児たちのひたむきな姿に刺激され、がんばり精神を燃やし、また、「友愛の心」を育んでいる健常児たちがいる。
 段階を追ってみると、幼児は、健常児か障害児かは無関係に自然に交流する。
 小学生になると、大人の言動を見聞きするようになるが、自閉症児は、他人を攻撃することも、嘘をつくこともないため、健常児は、彼らを遠ざける理由はなく、休み時間には、サンドイッチ型に配置された教室を行き交って、自然に交流する。
 また、子どもの物の捉え方や理解の仕方を既に忘れてしまっている大人の教師よりも、同年代の子どもの方が、友だちを上手に導くことができる(物語35頁)。
 中学生も、健常児は、戸惑う自閉症児を見れば、ごく自然に手を差し伸べる。
 東高等専修学校では、健常児は、中学時代に不登校児などとして冷たい目で見られるなどしてきたものの、入学後は、共に繊細さを持つ自閉症児の存在に心を和ませ、ごく自然に、また、積極的に、自閉症児に助けの手を差し伸べるようになる。
 また、東高等専修学校では、バディ(Buddy)制度が採られており、健常の生徒と自閉症の生徒とでペアを組んで学校生活を共にしている。健常の生徒は、自分が休んだら、自閉症の相棒が困ると考え、学校を休まなくなり、不登校が解消されるという好循環を生んできた。
 実社会は、健常者と障害者が共生しているところ、混合教育を受けた卒業生は、ごく自然に、弱者に対する優しい思いやりを持って、彼らを自然に積極的に受け入れていく。「心の教育」「ノーマライゼーション」は、ごく自然に実践できている。

(2) 地域に理解されたから存続することができたこと
 
武蔵野東学園は、これまで60年にわたって、自閉症児に対する「友愛の心」に象徴される共生の精神に基づき、地域の住民の方に対する対話に努め、また、教職員、保護者が品位をもって行動し続けたことにより、ようやく地域住民の方々からの信頼を受けることができた。
 そのような地域住民の方からの信頼がなければ、武蔵野東学園が武蔵野市内に存在することができないのは明らかである。
 武蔵野東学園は、かつて、東小学校の創立に当たって、保護者が「いつ終わるとも見通しがつかない陳情活動に疲れ果てた」(物語38頁)などという苦難を伴った活動の末に、ようやく武蔵野市内にできあがった奇跡である。
 一度、当学園へ向かうバスに乗れば、バスの運転手さんや地域の住民の方々たちの温かいまなざしがあることが分かる。守る会のX(旧Twitter)には、地域住民の方による、「武蔵野東(学園)は、武蔵野市の精神文化を象徴する存在」との投稿がある。
 当学園が上記(1)のとおり「混合教育」を続けることができてきたのは、武蔵野市を中心とする文化が背景にあったことは疑いがない。

(3) 自閉症児の就労について
 
東高等専修学校では、自閉症児は、社会で自立した大人になるべく、実習などとして、「ネクタイの結び方」「挨拶・報告の徹底」から始まり、「電話による報告連絡の練習」、「キャッシュカードの使い方」などまで学習させる。
 さらに、インターンシップを実施して相性を確かめた上で、最終的に就労先へ送り出すため、東高等専修学校を卒業した自閉症児の一般就労率は、他の訓練機関や教育機関の平均からすれば、驚異的に高い。
 こうして、その自閉症の生徒が、職場に入ると、学園で徹底してたたき込まれた「挨拶」を実践するとともに、指示に素直に従い、仕事に集中して取り組める人材となる。
 ただ、こうして、職場に送り出しても、現場での不適合により学園に戻ってくることもしばしばある。そのようなときは、教員たちは、その生徒を再教育し、再び新たな職場探しに奔走している。
 そこで、教員たちは、就職先が決まった後も安心せず、就職後も、職場を訪問してフォローに回っている。 

(4) 小括
 
このように当学園は、地域の住民の理解と信頼を背景に、共生の思想に基づいた「混合教育」を実践し、自然と思いやりの精神が持てる生徒を輩出してきた。また、健常児との交流に慣れている自閉症児は、東高等専修学校で、実習等を受けた後、教員たちの努力のおかげで、就労先へ定着していく。これが、武蔵野東学園の混合教育である。

2.東高等専修学校を普通高校へ転換し、混合教育を空虚なものにしようとしていること

(1)  東高等専修学校の必要性
 学園全体における東高等専修学校の位置づけは、寺田理事長が『物語』139、165頁で述べていたとおり、「自閉症児教育の仕上げを担う」場である。北原キヨ先生の願い、「自閉症児たちが職業を身につけることで、障害者としてではなく、社会に役に立つ一人の人間として自立してほしい」という強い願いが、その教育理念には込められている。東高等専修学校は、この北原キヨ先生の理想の実現、武蔵野東学園が持つ社会的意義の実現に不可欠なものである。

(2)  松村氏の構想は、東高等専修学校における混合教育を実質的になくすおそれが大きいこと
① 中高一貫校の設立構想
 しかしながら、松村氏は、東小学校の保護者説明会の場で、「この学校を私はどのようにしていきたいか…新設高校作って中高一貫校にします」「うちの状態で高等専修学校を高校に転換しようと思ってる」などと述べ、東高等専修学校を、武蔵野東中学校と一貫した普通高校へと編成し直すことを企図しているという発言をした。
 その後、令和5年12月13日には、東中学校が、インターネットを通じた保護者への連絡の中で、保護者から寄せられた、「中高一貫校の設立により、混合教育は維持されるのか」との質問に対し、「中高一貫校の設立においても、健常な生徒と自閉傾向のある生徒が共に学び合える混合教育の考え方を大切にします」と答えており、学園が松村氏の構想を元に中高一貫校へと現に転換する計画が現にあると認められる。
 しかしながら、かかる転換は、以下述べるとおり、これまで行ってきた混合教育の維持を困難にするものと考えられる。

② 自閉症児の受け皿の体制及び学園側の発言等が混合教育の放棄を示唆していること  
 自閉症児の学力は、知的障害を伴わない高機能自閉症児を除くと、健常児に比して低いことから、普通高校において、自閉症児と健常児とを、同じクラスで、同じレベルの授業を進めることは現実的でない。
 そこで、普通高校においては、特別支援学級を設け(学校教育法81条2項)、これを、知的障害を伴う自閉症児の受け皿とすることが想定される。
 しかしながら、実際に、東京都内において、普通高校の中に、知的障害を有 する生徒を対象とする特別支援学級を設けている学校は、公立、私立ともに存しない。それは、健常の生徒と知的障害を有する生徒とで、異なる授業を行う必要があるため、高校としては、双方に対応できる先生を準備しておく必要があり、教員数の確保や経費の問題が生じることが理由の一つだと考えられる。
 しかるところ、いま、松村氏のように経営の採算を優先事項と考えると、普通高校を創設した場合、上記のような懸念がある特別支援学級の設立を不要のものとし、東中学校に入学させる自閉症児としては、高機能自閉症児に限定し、東小学校に通う(高機能自閉症児を除く)自閉症児の教育については、職業訓練校等の別法人に切り離すといった編成案などが合理的に考えられることになる。この点、現に、石橋校長は、複数の保護者に対し、こうした構想が存在する ことを示唆しているところである 。
 さらに、東中学校は、保護者説明会の後の、令和5年12月13日に、インターネットを通じた保護者への連絡の中で、保護者から寄せられた、「中高一貫校の設立により、混合教育は維持されるのか」との質問に対し、「中高一貫校の設立においても、健常な生徒と自閉傾向のある生徒が共に学び合える混合教育の考え方を大切にします」と答えるにとどまり、(高機能自閉症児を除く)自閉症児自体を受け入れ、混合教育自体を維持することまでは明言しなかった。この発信内容は、上記のような編成案と奇妙なほどに整合し、むしろ、これまで維持してきた混合教育自体を放棄する選択肢を示唆するものとも考えられる。

③ バディ(Buddy)制度も失われること
 健常の生徒は、前述したバディ(Buddy)制度により、自閉症の生徒を支えられるのは自身だけであると思って、自身が必要な存在だとわかって、不登校が解消され、こうして、卒業時には、半数以上、時には9割以上に及ぶ生徒が3年間皆勤賞をもらってきた。
 これは、東高等専修学校における混合教育の成果にほかならない(物語147〜149、289頁)。
 しかしながら、松村氏が、東高等専修学校を、東中学校からの中高一貫の普通高校へ編成し直せば、その普通高校からの新規入学者として、これまで入学していた不登校の生徒等が入学してくることはなくなり、バディ制度の主人公の一翼となっていた健常児が欠けることになる。
 また、普通高校へ編成し直されてしまえば、上記のとおり、健常の生徒からみれば、自閉症の生徒等が、別の学級あるいは別の学校法人に所属する者として物理的にも離れてしまい、健常の生徒が自閉症の生徒等と日常的に接触することも困難になるため、バディ制度の実施は困難となるおそれも大きい。

(3) 小括
 以上のとおり、自閉症児教育の仕上げを担う東高等専修学校を敢えて普通高校へ編成し直すことは、自閉症児の受け皿等に係る法の運用実態や、これまでの学園側の発信内容等にも照らすと、知的障害を伴う自閉症の生徒の行き場を失わせるなど、従来、武蔵野東学園が実施してきた形での健常児との混合教育を維持することを困難にするおそれが大きい。
 松村氏が、採算を重視するあまり、中高一貫校を構想し、混合教育を実質的に放棄し、これを空虚なものとするようなことがあれば、学園がこれまで則ってきた教育方針の根幹、建学の理念を放逐するのと同義である。
 これは、武蔵野東学園が、30年以上にわたって守ってきた東高等専修学校にお ける混合教育、そして、東高等専修学校が「自閉症児教育の仕上げを担う」という北原キヨ先生の理想が、今般松村氏によりその実質的な機能もろとも失われかねない危機に瀕していることを意味する。
 また、学園に自閉症児を入学させた保護者は、入学に当たって、武蔵野東学園から、就業まで一貫した教育を受けられるという説明を受けたにもかかわらず、かかる説明が反故にされるおそれが大きいものと考えられる。



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