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馬鹿息子 大友親家

1561年大友宗麟の次男として誕生。覇気があり気性荒く、宗麟に僧籍に入れられる。親家はこれに反して還俗。1575年にはキリシタン、ドン・セバスチャンと洗礼名を得る。後の降誕祭では町中の寺院数カ所を破壊して回った。

1579年反乱を起こした田原親貫に代わり田原氏本家を継承。田原親家を称す。1581年には加判衆となり豊前、筑後、筑前の戦に参加している。

1586年島津侵攻(豊薩合戦)の際には島津義久に協力しようとした。そのため、兄の大友義統が激怒。殺害しようとするが父の大友宗麟の取りなしで役職罷免、所領没収で許された。臼杵の大友宗麟の元で仕え、豊前の門司城に移る。名を門司勘解由允に改めた。しかし秀吉の九州平定の際にその不忠をとがめられ、役職罷免、所領を没収された。父の大友宗麟の嘆願で助命。父に引き取られてからは臼杵に移り、父の臨終に立ち会い、その葬儀も行った。

1591年には再び加判衆に任命され、1592年の文禄の役に参加した。

大友義統改易で立花宗茂の軍につけられる。1609年には細川忠興に客分として仕官。利根川道孝と改名した。1641年死去。子孫は熊本細川氏の直臣になり、松野氏を称す。

大友宗麟の子供でできが悪いトップがこの方です。兄とは仲が悪く、父には常に心配される人物です。若い頃は熱心なキリシタンで神社、仏閣の破壊をしています。様々な失敗のたびに改名。面倒な性格です。最終的にはキリスト教も改宗。81歳でなくなる際には禅宗となっています。ちなみに奥さんに大友宗麟三番目の正室の連れ子をもらっており、いろいろややこしい。

信長の野望では比較的まともな能力なので「大友宗麟の後継、親家にしよう」とやった途端の部下の忠誠の下がり方が半端なかったのを覚えています。人物としてはだめな奴。大友宗麟の息子でなければ生きていない人物ですね。宇佐神宮、英彦山焼き討ちにも関係していたのかな? 

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