超マイナー 五条鎮定(ごじょう しげさだ)

生誕不明。死没不明。筑後、高屋城主。

大友義鑑から偏諱を受け鑑定(あきさだ)、二階崩れの変で義鑑が死去すると子・義鎮(宗麟)から偏諱を受け鎮定(しげさだ)に改名した。

大友氏の加判衆の一人。筑後方面の担当だったようです。

五条氏は遠い祖先に清原広澄に持つ家柄で後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子、懐良親王(かねよししんのう)の征西大将軍としての九州入りに、補佐役として伴われ、その子孫はそのまま九州に土着した。髙屋城は筑後十五城の1つとして数えられる。

1567年、1569年の軍忠書に名前が見え、家中から多大な犠牲を出して大友氏の戦に貢献している事がわかり、多くの戦に参戦していたようです。

1578年の耳川の戦いで参戦。多大な犠牲を出している。

耳川での大敗後、次々と大友氏から龍造寺氏や島津氏に寝返った筑後国人の中で、問註所統景(もんちゅうじょむねかげ)と共に最後まで大友氏に属して孤軍奮闘し、1584年には、龍造寺氏に内応したとの嫌疑で、それまで大友氏に属していた猫尾城の黒木家永(くろきいえなが)を攻め、功績を称えられている。

1587年に筑紫広門(ちくしひろかど)の与力となっているが、後の動向は不明。秀吉の九州平定で大名になれたのは筑後方面では筑紫広門だけでした。五条氏の行く末を大友家から切り替えたターニングポイントだったようです。

一説には秀吉の九州平定の後、日田、玖珠方面の知行を得たようです。

嫡男・統康(むねやす)の代からは矢部氏を名乗り、大友氏改易の時には加藤清正に後に柳河藩立花氏に仕えた。

超マイナーな名前ですが大友家臣団では重臣。五条鎮定でした。


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