フランシスコ・ザビエル
大友家臣団を紹介していく中でこの人物の紹介をしなくてはいけないのかも?と思いましたので紹介します。
昔の教科書のイメージ的には頭がはげて(トンスラというスタイル)、海外からわざわざキリスト教を布教するために来た人物です。常に宗麟の傍らにいて聖書もって、ことあるごとに「アーメン」と言ってるイメージがあります。漫談の際にはそのイメージを誇張して書いています。
大友宗麟が最後までその姿に憧れ、ある意味、傾国に向かわせた人物です。
生誕は1506年4月。死没は1552年12月となっています。46歳という短い生涯ですがカトリック教会では聖人とされています。
元々はスペインの貴族の出身で近くにハビエル城というお城もあります。19歳で名門パリ大学に留学して哲学者として目指していたが、聖職者を志す。
そしてこの時期にイエズス会を創立。世界宣教を目指すようになります。
世界宣教とは当時、大航海時代に船に乗り、見知らぬ土地、見知らぬ人種にイエスキリストの教えを広めるというものでした。
当初は行く予定ではなかったザビエルが急遽インドのゴアに赴任。マラッカで日本人のヤジロウ(アンジロー)との出会いで日本に布教することを決めます。
1549年鹿児島に来着。島津貴久に謁見、布教の許可を得ます。この時43歳。つまりザビエルの日本の布教は3年しかありませんでした。びっくりです。
当初、ヤジロウの日本語訳も曖昧でキリスト教は仏教の一流派と思われていました。しかし、仏教とは違う宗教とわかると島津貴久が禁教に傾いたため京を目指すようになります。途中、山口にて大内義隆を男色をやめなさいと諫めたため、怒りを買いながら京へ。
1551年1月、京に到着。貢ぎ物がないことで足利義輝との謁見は拒否されます。この時のザビエル一行はみすぼらしい格好だったようです。
4月、貢ぎ物を取り寄せ山口に入り、怒りを買った大内義隆に謁見。献上品を差し出し、布教の許可を貰います。ザビエルは京の布教より山口の布教の方が意義があると思ったようです。大内義隆が扱いやすい人物に見えたのかもしれません。山口の布教で信者は500人以上になったとあります。
しかし9月、大内義隆が部下の叛旗で敗れ、自刃する政変が起きます。
そこで、誘いを受けていた豊後、大友義鎮のもとに赴きます。
9月より豊後にて布教活動。
11月、日本人青年4人を同行させ、日本を離れゴアに赴きます。インドからの情報を気にしていたとあります。日本での布教が思ったよりうまくいかないというより、中国という巨大な布教地域を目指したといえるでしょう。
てか、大友宗麟のもとには2ヶ月足らずしかいなかったという事実がびっくりです。宗麟にとってザビエルはものすごいオーラをまとった人物にみえたのかもしれませんね。
1552年4月中国を目指しゴアを離れる。
9月上川島に到着。入境にうまくいかず、病を発症。
12月逝去。
ザビエル自体の布教活動で信者獲得は1000人に満たないものでしたが、彼は後に聖人として祀られ、体の様々な部分があちこちに聖物として置かれています。銅像も国内には沢山あります。2年ぐらいしか布教していないのにずるいって他の神父たちから聞こえてきそうですね。大友家臣には恨まれそうです。彼が去ってから大友家の傾国がはじまるのですから。
ちなみに当時ではトンスラのヘアスタイルはなかったといわれています。
はげちゃびんの可笑しなザビエルの絵は死後、想像で書かれた物だそうです。ザビエルがその絵をみて、「あなたですよ」と言ったらめちゃくちゃ怒りそうですね。
大分のトラピスト修道院展示室(速見郡日出町)にはザビエルの皮膚片が展示されているそうです。
フランシスコ・ザビエルでした。
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