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超最強 立花宗茂

大友家の家臣で唯一大名家になり、取り潰しにあい。徳川家において復活した大名です。立花道雪に次いで好きな武将です。戦国最強武将の一人でしょう。

脚色して描けば、間違いなく大河ドラマ化できる武将です。

生誕は1567年、今の豊後高田市あたりの高橋紹運の長男として誕生。幼名 千熊丸。後に弥七郎。結構、改名が多く(18回ほど)。この方の人生もまあまあ節目の多いものなのだと窺えます。没年が1643年で76歳くらい。4年に一回くらいで改名していることになりますね。この辺は大友宗麟に似ています。ただ別名が凄い!多いので一部抜粋ですが、西国無双、鬼将軍、常勝将軍。なんですか?この呼び名。戦場でこの呼び名を聞いたら味方なら頼もしいですが、敵ならすぐ逃げてしまいそうです。

高橋紹運の長男で跡取りとして育った為おぼっちゃま気質だったと本人は回想していますが立花道雪の婿養子になってからの武将教育は半端なく、山歩きで栗の棘が刺さった時に、部下に抜いてくれと頼んだらこれぐらいで泣き言、言うなと栗の棘をぐりぐりと押し付けられたりして育っていきます。お陰で部下に慕われ、愛される将として育っていきます。剣術はタイ捨流免許皆伝。弓は日置流免許皆伝。茶道にも通じていた方で大の酒好き煙草好き。部下や他の武将にも慕われる戦国時代のカリスマ的な武将です。戦国前期に活躍していればきっと九州の戦国の覇権が変わっていたかもしれない武将です。

初陣は14歳で第二次太宰府観世音寺の戦いで敵将堀江備前を討ち取る戦功を立てた。初陣から凄かったんですね。これが立花道雪の目にとまり「息子ほしい」と要求。長男なので断るも、再三の要求に父の高橋紹運も折れ、立花誾千代の婿養子となり、道雪の家督を譲られています。しかし、夫婦仲はよくなく。子供もなく。道雪死後は別居婚となっています。道雪の娘、誾千代は男達にも引けをとらない人物だったといわれていますし、立花城の家督を道雪からついでいます。道雪さんは悪いくせというか、戦国武将の洒落っ気みたいというか、ロマンチストです。

ーーーー俺の家督を頼む。お前しかないんだああ。ーーーー

的なことを劇画調で言われたら。

あれなしって言われても、いい訳がない。当然だけど揉めますよ。家臣も結婚当初は大変だったと思います。でも、立花宗茂は立派な武将です。家臣も心酔していきます。娘である誾千代は面白くなかったのでしょうね。で、別居。でもね誾千代は決して嫌いだった様ではないのです。出迎えや和睦の取りなしをしたりしていますから陰から支える存在になったのではないでしょうか?

さて初陣を飾った頃の大友家は衰退期にありました。かつての支配下の武将の反乱、龍造寺、島津の台頭。これを義父 立花道雪、実父 高橋紹運が裏切ることなく支えているという構図でした。この二人の父の忠義が後の立花宗茂の精神の支柱になっていきます。

「主君を裏切らない」

これが彼の信念となります。

龍造寺が島津に負けて、九州北部が混迷します。そこで道雪、紹運の活躍で大友家は九州北部の支配に乗り出します。その中で立花道雪の病死。

大友家は軍事部門の大事な主柱を失います。宗茂はこれにより家督を継承。20歳そこらの若者が立花道雪の後を継ぐのですから重責は半端ないものだったでしょう。

その後、島津の侵攻。ここで実父、高橋紹運の死。さらに続く島津の侵攻を耐えて。羽柴秀吉の島津討伐の侵攻。撤退する島津軍を追撃し、実父が死守した岩屋城を奪還するなどの活躍を見せています。このとき主君、大友宗麟の推挙により立花宗茂は秀吉の直参に取り立てられ、島津侵攻軍の先鋒として活躍します。その活躍が認められ柳川10万石の大名になります。

立花の処遇については秀吉がほしがって、宗麟に推挙させた。とありますが宗麟としては、大友家の存亡をかけた中ですので、博多の港と立花の一族を天下人の一門に入れて大友の血筋を残すことに尽力したというところでしょうか。宗麟と長男義統はこの頃仲良くありません。重臣もほとんど死なせたし、お家の滅亡を覚悟していたのでしょう。

大友家臣時代の活躍はこのあたりまででしょう。

このとき宗茂20代。衰退する大友家を支え、父たちの死を受け入れ、秀吉の家臣になり、天下無双とか西国一の武将とか言われます。

普通なら有頂天になりますよね。

宗茂はそんな中でも新しい戦法を編み出すのです。

1587年9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200と輜重隊を率いて出陣、既に一揆方の伏兵の計を察知し、これを逆用して先に兵を三隊に分けて伏兵を配置、小野鎮幸の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将・大津山出羽守を討ち取った。そして佐々軍の平山東・西付城を包囲する一揆方隈部氏配下の有働兼元軍を統増や米多比鎮久ら騎馬鉄砲の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し有働志摩守を討ち取り、「火車懸」という戦術を繰り出した。 その内、十時連貞、水野勝成、安田国継三将の連携も大活躍したと伝わる。

宗茂は上杉謙信のファンだったようでネーミングが「車懸り」に似ていますが当時ではすごい戦法です。島津の「釣りの伏せ」なんかも研究したようです。

この研究は後の文禄、慶長の役の活躍にも役立つのです。立花軍は3000ほどの兵で参陣しているのですが、「1万の軍に匹敵する。」とその活躍を讃えられています。時にはゲリラ戦みたいな戦術もしてますので戦闘集団としての立花軍団はこの時、最強だったのでしょうね。

さて秀吉死後の関ヶ原の戦いが宗茂の分岐点です。世論や時世は徳川家康にあるのを知りながら石田三成の西軍に味方します。主君を裏切らない。この姿勢が戦国武将としては珍しい忠義者ですね。しかし、石田三成は主力として立花宗茂を使わず、大津城攻めを任され攻め落とします。この時に鉄砲射撃に「早込」を用いています。しかし、関ヶ原の戦いでは東軍の徳川家康の勝利となり、大阪城に引き返しています。残念なのは総大将の毛利輝元が動かなかったこと。立花宗茂は柳川に帰国。この際に、因縁の相手、島津義弘と出会うのです。普通なら実父の仇討ちをするところですが、流石、西国無双の武将です。何かの縁だと、一緒の船に乗せ、更には護衛までつけて帰国するのです。これには島津義弘、感激しています。関ヶ原で鬼島津の名を挙げた猛将も宗茂の戦国武将っぷりに惚れるのです。帰国後、島津家も徳川家に恭順することになるのですが立花宗茂に援軍を送っています。立花宗茂は柳川帰国後、九州勢の包囲網に攻められるのですが、加藤清正の降伏勧告によって開城します。これには正室、立花誾千代が加藤清正にお願いしたとかいわれています。

立花家は改易。宗茂は浪人となります。西国無双の武将が浪人です。当然多数の大名から勧誘されますが宗茂は謝絶。食客として過ごします。関ヶ原から2年後に立花誾千代が病で死去。宗茂は京都に登り浪人生活を過ごします。その後、江戸で本田忠勝の世話になり、幕府御書院番頭として5000石を給され、後に徳川秀忠の御伽衆に列せられ陸奥棚倉に一万石を与えられて大名に復帰します。関ヶ原から7年後くらいのことです。家臣たちは泣いたでしょうね。主君を裏切らない姿勢が招いたとはいえ、家臣たちは苦渋の思いで過ごしたことでしょう。逸話もありますもんね。

この後、三万石に加増されて、宗茂と名乗るようになります。

大阪冬の陣ではかつての主君、豊臣家につかないように家康が説得。秀忠の軍師参謀を兼ねた警固を担当。戦自体でも毛利勝永の軍勢を駆逐など活躍しています。

その後、柳川10万石に復帰。改易された大名の中で唯一、旧領に復帰した大名になりました。この後、徳川家光の相伴衆となり戦国時代を知る数少ない武将として重用されたようです。復帰は果たしたのですが実際には本領には帰ることはあまりなく江戸屋敷にて生活していたようです。家督を養子忠茂に譲っています。足が悪くなったのも原因のようです。

1638年の島原の乱にも参陣し、総大将の松平信綱を補佐。城兵の様子から黒田軍の夜襲を予告したり、兵糧攻めを進言したり戦略の指揮を執っていたようです。有馬城攻略には一番乗りを果たし。武神再来と称されています。まあ、実際には家臣が頑張ったのでしょう。

生涯、実子に恵まれず、養子、忠茂が家督を相続。

1642年江戸藩邸で死去。

死後の戒名に俗名の宗茂がそのまま入るほど立花宗茂の名前が有名だったそうです。

柳川城内に三柱神社に養父の立花道雪、妻の立花誾千代とともに祭神として祀られており、近年は必勝、就職、再就職の神として崇敬されているそうです。再就職の神には納得です。御利益ありそうな神様になりましたね。

刀剣の収集家としても有名です。将軍に見せない刀もあったそうです。

是非、柳川に行く際には神社参詣、立花家資料館をまわりたいですね。






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