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討ち死に三代 高田氏

高田氏は伝えられる系図によれば、清和源氏ということになっている。
高田氏の祖は源頼朝に仕えた高田掃部助重定で大友能直の豊後下向のついて豊後に下ったとされ、来縄郷高田村に高田氏が居城を築いた、と記されている。
 しかし、高田城を築き、来縄郷の地頭だったという高田氏の名は記録がない。また、大友能直の豊後下向のことにも疑問が出されており、高田重定が能直について豊後に下ったという説も疑わしいものとなっている。
 ちなみに、宇佐氏の庶流に「高田刑部」なる人物がみえ、高田氏は宇佐氏の一族だったのかもといわれている。

大友家臣の中で、代々の当主が討死

 戦国時代となり、高田義治(たかだ よしはる)は1523年 大友義鑑に従って筑前・筑後に出陣、1534年には「勢場ケ原の戦い」に出陣して戦死した。
つぎの高田鑑将(たかだ あきまさ)は大友義鎮に従い、1551年 肥後国に出陣、ついで、1557年 豊前国へ、翌年には山田氏の拠る馬岳城攻めに参加し、先陣をつとめて討死した。高田氏は大友氏に仕えて各地に出陣し、当主が討ち死にとなったのである。先陣を務めるあたりはかなりのイケイケ武将タイプですが武勇に優れた一族ではないようです。源頼朝以来の部下としてのブランドが常に戦場で先陣を切らせてしまう空気が大友臣下の中ではあったように思われます。
 鑑将のあとは高田鎮孝(たかだ しげたか)が継ぎ、1556年より1561年まで、田原親賢に属して豊前国に在陣し、その功により義鎮から感状を賜っている。1565年、筑後の立花鑑載、原田親種らが大友氏に反旗を翻し、義鎮は田北鑑益を大将として討伐に当たらせたが、この陣に鎮孝も参加した。やがて1578年大友宗麟は日向侵攻を開始し、鎮孝も参陣した。しかし、大友軍は高城・耳川の戦いで島津軍に敗れ、鎮孝は耳川の戦いで戦死した。
 鎮孝の戦死で家督を継いだ高田正孝(たかだ まさたか)は、大友義統に仕えて1580年の田原親貫討伐に出陣、鞍掛城攻めに功をあげる。

しかし島津氏は肥前の龍造寺隆信を討ち取り、大友氏への攻勢を激化。島津氏の攻勢に大友宗鱗は、1586年、豊臣秀吉に面会し援助を求めた。同年、島津軍は豊後に侵攻(豊薩合戦)。このとき、高田正孝は木付鎮直、大神鎮勝、田染統基らとともに木付城に籠城、島津軍と戦い、国東半島への侵攻を防いだ。1587年、豊臣軍の九州進攻により、島津氏は兵を引き上げていった。この年宗麟死去。義統が後を継ぐ。
 大友義統は豊臣大名として豊後を賜り、1590年の小田原攻めに参加し、これに正孝も従った。ついで、1593年 朝鮮攻めが始まり大友義統も朝鮮に渡ったが、不手際によって秀吉の怒りを受け、義統は所領没収となった。

高田正孝も義統に従って朝鮮にあったが、大友氏改易により諸将とともに豊後に帰り、高田邑浜に蟄居、1603年に死去した。

高田正孝自体は大友家のブランド家臣ですので他家へ仕えることがはばかられたのかもしれません。

また先代皆、先陣で討ち死にしています。

武士という職業に嫌気がさしたのかもしれませんね。

大友義統自体も当主として優秀ではありませんもんね。

高田氏のその後の記録はなく、高田氏は没落となった。

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