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智勇兼備 吉弘鑑理(よしひろあきまさ)

吉弘鑑理は大友義鑑、宗麟に仕えた武将です。生誕1520年くらい?死没1571年。父、吉弘氏直が19さいの若さで勢場が原の戦いで戦死。そのため幼くして家督を継ぎます。吉弘氏は大友一族田原氏の分家であり大友一族として重臣の位置づけされた家柄となります。息子には鎮信、鎮理がいます。次男、鎮理は後の高橋紹運です。ですので立花宗茂の祖父といえばわかりやすいかと思います。大友宗麟の前期、三老の一人です。

1550年 二階崩れの変後の菊池義武討伐に出陣。

1556年 小原鑑元の反乱鎮圧に出陣。

1557年 秋月文種討伐に出陣。

1560年 宗像氏貞討伐に出陣。

1562年 毛利領豊前侵攻。

1567年 高橋鑑種討伐に出陣。

1568年 門司城の戦いに出陣。

1569年多々良浜の戦いに出陣。

同年、龍造寺討伐に出陣。

1570年 今山の戦いに出陣。

1571年 病のため、死去。

智勇兼備の武将として宗麟の信任が厚く、数々の戦に出陣。武功を挙げています。筑前方面軍の指揮を任されています。後に吉岡長増の後任にもなり、軍務、政務共に忙しい立場だったようです。寺社関係にも宝具を奉納して神仏信仰の深さがある武将かと思われます。

好き嫌いのはっきりしている宗麟はガチで主君に忠告する武将、立花道雪を筑前方面軍大将に据えて、吉弘鑑理を側近にして働かせる人事権を行使しています。宗麟の道雪嫌いが窺えます。

病気がちで病のため龍造寺討伐が中断したなどと記載されていますがおそらく過労ですね。労災ものの仕事していたと思います。

今山の戦いの敗戦後に死去するのも悔しいという感情的なものもあるかもしれません。吉弘鑑理の為に、宗麟も祈祷などあらゆる手を尽くしたと記載しています。鑑理の死去の後、息子が家督を継ぎ、徐々に宗麟の側近が若返っていくのです。結果、宗麟に物言う配下が減っていくのです。

宗麟の躍進は家臣団の優れた活躍によるものですが吉弘鑑理は宗麟の右腕的な武将です。道雪の方が有名ですが間違いなく吉弘鑑理も智勇兼備の有能な武将です。

赤神 諒さん著書「大友二階崩れ」では主人公として書かれています。

時間あれば是非読んでみてください。

吉弘鑑理でした。


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