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悲将 一万田鑑実(いちまだ あきざね)

大友家家臣で悲将といえる武将です。生誕は不明。没年は1588年。一族謀反の疑いで処罰されています。

大友義鑑、宗麟、義統と仕えた重臣です。大友軍の要といえる武将。

しかしながらその境遇は複雑で、宗麟の時代で1553年、父、鑑相(あきすけ)、叔父、宗像鑑久(むなかた あきひさ)が討ち取られます。

これにより一族の家督を相続。妹は宗麟の側室になります。

宗麟の下で菊池義武討伐、秋月文種討伐で活躍します。

1568年 叔父、高橋鑑種(たかはし あきたね)謀反。これを討伐に参加します。

1569年毛利軍との戦いでは、毛利軍の武将 乃美宗勝、桂元重を撃退しています。

1578年の耳川の戦いでは殿を務めています。

境遇が複雑ですがかなりの戦上手だと思われます。戦馬鹿な面もあります。

この戦後、加判衆に昇進。1586年の島津侵攻でも一族や諸将が寝返る中大友軍の要として戦い、軍功を上げています。

1587年宗麟死去。秀吉が九州平定します。

1588年大友義統の命により自害。島津侵攻時一族の寝返りが原因とされています。

戦国時代において父や叔父が敵になるのは仕方ないのですが主君に信頼されない武将ほど悲しいものはないですね。大友義統は父譲りの女好きと、猜疑心をいろこく受け継いでいたようです。

島津侵攻時裏切った者が許せない。宗麟の派閥が許せなかった。

義統は島津侵攻時、秀吉の命令を無視して戦に挑み、敗走しています。

最後まで戦った鑑実さんの功績は評価されていないのか?

宗麟の側近であった鑑実を疎ましく思ったのでしょうか?

ちなみ息子の鎮実は妻に宗麟の娘をもらっています。めっちゃ親戚です。鎮実もこのとき自害させられています。

鑑実が存命なら朝鮮出兵時の誤報による撤退をしないで最後まで戦っていたでしょう。

そう考えると鑑実の自害は大友軍の最大の損失だったといえます。

主君のために戦い主君の命で自害。

悲将 一万田鑑実でした。


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