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不明懦弱(ふめいだじゃく)?!大友 義統

大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。
生誕は1558年。死没は1610年です。53歳くらいの生涯で、生まれてすぐは大名のお坊ちゃまから没落し、何度も謹慎(軟禁)生活を送って死んだ。かわいそうな人物です。個人的には嫌いではないのですが、暗愚な戦国大名5人を揚げよと言われたら。確実にその1人には入れていいでしょう。

義統の諱は足利義昭から送られて名乗っていますが、後に秀吉の部下になってからは秀吉の吉を諱として送られ、吉統と名乗ります。

歴史書には大友義統の評価を不明懦弱(ふめいだじゃく)と書かれています。これは「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」という意味です。

本人も「もとより自分は意志薄弱で優柔不断な性分なので」と述べている記述があるので元々、覇気や決断力の乏しい周りに左右されるタイプだったのでしょう。

酒癖悪く、困ったほどの女好き。落語の世界ではだめな若旦那の鏡みたいな人物です。

1576年 義統19歳くらいで、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる。家督相続はなされたものの、1577年頃までは宗麟・義統との共同統治が行われていたとされています。この頃、大友宗麟はキリスト教に傾倒しており国内統治は無関心。茶器などの収集癖が丸出しで、義統に注意されています。

1578年、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。大友宗麟の采配で侵攻したという通説が今日では義統主導といわれています。ちなみに寺社破壊もこのとき行われています。義統は母の奈多夫人の存命中はキリスト教には改宗はしませんでしたがかなりキリスト教を信仰していたようです。

ですがこれは寺社を破壊し、寺社預かりになっている領地を獲得する目的があった様に思われます。領地獲得にかなり苦心したようで寺社破壊は新しい部下への領地として与えたり。また商人の借地として貸したりして貨幣を得ようとしています。大友家の財政の立て直しを結構考えていたようです。

義統の残念なところは、20代前半に人生を左右する戦をしたこと。若いからといわれ、総大将を田原紹忍にしたこと。また、自分は別働隊として動きながら耳川に至らなかったこと。

また、父との二頭政治にも弊害が現れ父と対立。
有力庶家である田原親貫が1579年に反乱(田原親貫の乱)、1580年には田北紹鉄が反乱を起こし(田北紹鉄の乱)、重臣・立花道雪も病没する。

そんな最中にに愛妾の取り合いで部下ともめてしまいます。結果、家臣の分裂や裏切りがはじまっていきます。

肥後方面を押さえていた志賀家と疎遠になった原因がそれでした。
大友義統の命を受けた北志賀氏の当主・志賀親守は、島津氏の侵攻を防ぐため、その侵入口と予想される宇目村(現在の大分県佐伯市)に城を構築して拠点とした。

だが、島津氏が大挙して来襲するとの噂が流れるようになると、これに恐怖した親守は、なんと無断で守備を放棄して逃げもどったのである。大友義統はこれに激怒し、親守を隠居させた。

しかし、親守の跡を継いだ嫡男・親孝も、それからまもなく義統とのあいだで悶着を起こす。義統に仕えていた「一の対」という女を、親孝が盗み取ってしまったのだ。このため親孝も義統に罰せられ、菅迫という場所に蟄居させられた。島津がこの二人を見逃すはずがなく、裏切りの先鋒として島津に寝返りの約束。大友家臣の寝返り工作の役目を負うのである。さらには次男親家も島津の手引きすることになる。
かつては大友氏の版図であった肥後・筑後・筑前は、次第に肥前国の龍造寺家や薩摩国の島津家に侵食されていきます。

毛利家を支持する将軍義昭により「九州六ヶ国の兇徒」と貶められると、新政権織田信長に近づき信長より毛利領の内で長門・周防を与えるという朱印状を得る。さらに1579年11月27日、織田信長の推挙によって天皇から従五位下・左兵衛督に叙位・任官された。九州の周りが敵だらけになる中で織田信長との同盟は義統にとっては一筋の光明に見えたでしょうね。

そんなこんなの最中に義統は臼杵城から府内城へと拠点を代えて対策に乗り出すのです。
1580年田原親貫の反乱の鎮圧。
1581年英彦山焼き討ち。
1584年龍造寺隆信討ち死にによる筑後奪還を指示。
1586年島津による豊後侵攻。豊薩合戦が始まります。宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反し、また高橋紹運が岩屋城で戦死するなど、大友氏は滅亡の危機に立たされる。
ここに至って義統主導なのかは不明ですが、父、宗麟が動きます。宗麟は秀吉に嘆願しの九州下向を請う(これにより秀吉傘下の大名となる)。
秀吉は了承し、援軍として派遣された長宗我部元親や仙石秀久、十河存保らを派遣。
ここで義統またやらかします。
「わし(秀吉)が行くまで戦うな。」という命令を守れません。
援軍で派遣されたイケイケ仙石秀久に押し切られるように開戦(戸次川の戦い)。対する島津は武勇名高い、新納忠元。
ボコボコにやられてしまします。
大友軍では利光宗魚、戸次統常が討ち死に。長宗我部では嫡男信親が討ち死に。十河存保も討ち死にします。十河存保はこの討ち死にで領地没収されています。長宗我部元親、仙石秀久なんかはあまりの負けっぷりに自国に逃げ帰る有様。再び豊後侵攻の危機が訪れてしまいます。
大友軍の残った部下たちが居城で奮戦死守するさなか。義統は府内を退去。竜王城にこもりますが、ここも引き払い妙見嶽城に逃げています。後に秀吉にそのことで咎められます。

ここでも義統、ゲスな逸話を作ります。
寵愛する愛妾を置いていたことを思い出して、家臣の1人に救出を命じた。家臣の1人は命令に従って救出してきたが、それに対して義統が恩賞を与えようとすると、「私は女を1人助けたに過ぎません。このたびの戦いで多くの同朋が死んだにもかかわらず、それには報いず、私にだけ恩賞を与えるとは何事ですか。そのような性根を持つ主君は、我が主君にあらず」と述べて、逐電したという。この家臣の名は臼杵刑部といい、のちに毛利に仕えたという。あほですね。三国志であれば劉備が息子を助けた超雲に「私は有能な忠臣を失うところだった。」といって超雲を泣かすところなんですがね。

1587年 秀吉、九州征伐に出陣します。かろうじて滅亡を免れます。

後に秀吉から豊後一国と豊前宇佐郡半郡併せて37万石を安堵。

同年4月に、義統は隣国の黒田官兵衛の勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した。
後に司祭に謝罪してますもんね。
この年に宗麟死去。このときはキリスト教の葬儀ですが後に仏葬も行います。宗麟は子供に対して愛情が深い様に思います。兄弟喧嘩で殺し合う戦国において子供を殺していませんもんね。
1588年秀吉に謁見するため、上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱を与えられて義統から吉統へと改名した。また従四位下、侍従に叙され、後の文禄の役の年の正月には参議ともなった。

1590年の小田原征伐参戦。

1592年、文禄の役に黒田長政勢5,000と共に第三軍として兵6,000を率いて参戦。長政に同行して金海城の戦いなどで活躍した。
同年2月には嫡子・義乗に家督を譲り、自身は酒好きであったが、下戸に徹するようになど、公私にわたった21ヶ条の家訓を伝えている。

ようやく義統。家督も譲ったし安泰か?と思えばまたやらかします。

1593年、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。ところが行長は自力で脱出したことから、義統は結果的に窮地の味方を見捨てた格好になった。これが秀吉の逆鱗に触れが名護屋城に召還を命じられる。
詳細は不明ですが大友義統は黒田、小早川の軍とともにしておりこちらも退却をしています。何らかの意図があっての処罰の様な気もしますね。

義統は剃髪して宗厳を号し、大友家は源頼朝以来の由緒ある家であるとして死一等は減じられたものの、石田三成らの意見を聞いた秀吉から5月1日に改易を言い渡された。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家の奉行等の領地としても細かく分割された。
義統は、江戸(徳川氏)、水戸(佐竹氏)、山口(毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。
5年から6年の軟禁生活。この頃から読み書きをするようになったと思われます。畑仕事もしていますが、「大友家文書禄」などもこのあたりに草案があったと思います。

1598年 秀吉の死により、1599年に豊臣秀頼より特赦され、幽閉状態から脱した。大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。

ここでも時勢が読めない義統。
1600年 関ヶ原の戦いでは、徳川家康から嫡子義乗が徳川家預かりの身で嫡男徳川秀忠の近侍を許されていたことから絶対に東軍に味方すべきだと言うの諫止を退けた。それは大坂城下に側室と庶子が西軍によって軟禁されていたためだとされている。西軍の総大将毛利輝元の支援を受けて西軍に味方をすることに決め、広島城から西軍の将として出陣して、元の領国であった豊後国に侵攻した。
戦勝のあかつきには「豊後一国の恩賞」が約束されていたという。田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名級の旧大友家臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍は短期的に再興した。豊後に上陸して国東半島の諸城を下す。

石垣原の戦いで、黒田如水に敗れてしまい、剃髪したのち妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣へ出頭して降伏。今度は徳川家から幽閉される身となった。5年以上も家臣が没落した大名のためについてきたところが豊後統治の大友氏の強さを感じさせますが慶長の大地震でかなりの被害があった豊後としては戦力的には厳しかったと思います。相手は官兵衛ですしね。

関ヶ原の後、東軍配下の細川家領の杵築城を攻めたという咎で、義統は出羽の秋田実季預かりとなり、実季転封にともない常陸国宍戸に流罪に処された。この流刑地で大友氏に伝わる文書を『大友家文書録』にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。この頃の義統は源氏物語や和歌などの書写や創作もしていたようです。元々文化人のレベルは宗麟時代の教育の賜で女好き、酒好きをとれば優秀だったのかもしれません。

義統は慶長15年(1610年)に死去する。享年53。戒名は中庵宗厳。大友家は義乗が旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として続いた。女好きが功を奏して、一族存続の危機も庶子の子供から養子貰って存続します。
結局10年近く幽閉生活。そりゃあ、早死にしますね。
豊後分割は後の小藩乱立の基となります。
隠れキリシタンの里ができた基でもあります。
大分県が地域によって文化が違う原因を作った人ともいえるでしょうか。
大友義統は最後まで時勢が見極められない方でした。
ある意味、希代の愚将といえると思います。
大友家の没落があまりに早かったので隠し財宝の伝説とかもあるんですけどね。話で聞くだけなら楽しいと思います。義統は何をやってもうまくいかないんですから。
江戸時代に「大友興廃記」ができたときには週刊誌を読むような面白さがあったのかもしれません。

不明懦弱(ふめいだじゃく)?!大友 義統でした。









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ひでさん
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