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問注所 統景(もんちゅうじょ むねかげ)

生誕不明。死没は1593年文禄の役での討ち死。

筑後国長岩城城主。

問注所(もんちゅうじょ)というのは元々鎌倉時代の行政機関で今でいう裁判所みたいなところ。初代執事の三善康信(みよしやすのぶ)を祖先に持ち大友氏が九州に派遣された際に同行し問注所を名乗ったそうです。

大友義統の諱を貰い統景を名乗る。1578年の耳川合戦の敗北で肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が叛旗を掲げ、筑後侵攻を行う中で五条鎮定(ごじょうしげさだ)とともに大友氏に筋を通し筑前の大友勢力として秋月氏などの監視に努めています。

筑後がほぼ龍造寺に制圧され、さらには秋月、星野連合軍が長岩城を攻め寄せたときも孤軍奮闘し死守。逆に星野氏の支城を落とすなどの活躍をしている。これにより義統に「一国一忠の者」とたたえられ大友家の家紋の使用を認められています。

龍造寺隆信の死後、黒木氏、田尻氏の反大友勢力駆逐に貢献。

1584年秋月、星野連合軍に加え大叔父の問注所鑑景(もんちゅうじょあきかげ)が長岩城へ侵攻してくるが逆に鑑景を討ち取る勝利をあげている。

さらには島津侵攻の際も籠城しこれを防ぐ。

秀吉の九州侵攻の際には日向国侵攻の先陣を務めた。その功績で本領安堵。小早川氏に仕える。大友義統は領土を減らされていますからある程度のリストラは仕方なかったのでしょう。ですが大友氏に貢献した優秀な人ですから小早川氏に差し上げるのは惜しい人材のような・・・・。


文禄の役で戦功を揚げるものの明軍との戦闘で討ち死にした。この際に立花宗茂軍が救援したため、子の政連(まさつら)は立花氏に仕えた。

筑後の城主としてはメジャーな存在ですが、この名字の方には現在出会うのはかなりレアです。鎌倉の13人で「みよしやすのぶ」はでますので観たいところですね。


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