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地雷使い? 朝倉 一玄

生誕、没年不明。いたのか?創作か?不明ですが「大友興廃記」より
記載されている武将です。
駄原(だのはる)城の城代であったそうですが駄原城という城がどこにあったのか不明です。大分に駄原(だのはる)という地名はありますがこちらは現在の大分県立図書館近辺の地名であり。大友興廃記、記載の岡城の近辺ではありません。島津進行時に急増で作った城でしょうか。七ツ森古墳群の側だという説もありますが不明です。

大友興廃記より
「留守の火縄」の話
豊薩合戦の際、薩摩勢の坂瀬豊前守が、駄原城を攻めてきた。
城代を勤める朝倉一玄は
塀や柱を切って城内を焼き、留守の火縄を置いて退却した。

坂瀬はこれを失火と思い、喜んで入城。
一玄は志賀親次からの援軍を呼び、搦手(からめて)を開け、兵1500で駄原城を囲み、攻め寄せた。
薩摩勢は防戦しようとしたが、城内のものは外側の塀まで焼けてしまっていたため楯になるものがなく、あきらめていっせいに搦手から逃げだした。
しかし伏兵によって大将の坂瀬を含め大勢が討ち取られた。

とあります。
大友興廃記は江戸初期に大友家家臣のものが書いた時代物です。豊薩合戦で志賀親次のところに盛り上がりがあるので創作された人物の可能性は否定できませんが「信長の野望」などに出てきたりしますので意外にファンがいるのではないでしょうか?
「留守の火縄」って時限装置的な地雷みたいな奴だとすると三国志の孔明の「地雷」を連想してしまいます。個人的には朝倉一玄が城から逃げ出した後、島津軍が城を占拠した後に時限的な地雷にて混乱させた。としてくれた方が面白いかなぁ。
地雷使い 朝倉一玄でした。


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