くだらない朝

 いつから、こんな調子になってしまったのかわからん。
 確かに最初の数年は凄かった。大先輩の大石さんがひとりで闘っていたから。あの頃の大石さんのガッツは、週末に徹夜でマージャン卓を囲む教育委員会の中堅職員みたいにねちっこい粘りがあったから、善彦も津村も彼の勢いの渦が自分自身を複製しながら巨大な怪物曲線を描くかのように一緒になってガッツを振りまいていたな。あまりに勢いがあり過ぎて、心配になっちゃうくらいだったぜ。

「フナイ。お前が大石さんよりも才能があると思い込んでいるのミエミエだって」
 善彦と言う奴はだんごむしみたいに小心者なくせに、俺を理解したような口をきいてくる。
「ふざけるな。あんなロートル。いっぱしに台本仕上げたいっていうんだったら、大事なのは長いこと時間をかけることじゃなく、素早く書き連ねることだろ。早ければ早いほど美しいんだよ。あいつのガッツはドンガメの根性に過ぎないんだって」

 俺は、なんでこんなにイラついているのか、自分でも解らなくなっていた。

 大石さんの世界観はその時々の流行を取り入れているだけで、赤トンボの羽根みたいにペラペラに薄っぺら過ぎる。作品として一応まとまってはいるし、小洒落た長台詞が入っていたりしてるからウケはいいんだけど。惜しいんだ。本当に惜しいところにしか届いていない。

 そんなのみんな解っているのに。
 一番なんでもやれるっていう二十代のこの季節。
 バイトも何もかも後ろに追いやって、公演まで、一ヶ月という貴重な時間を作っているというのに、それも十数人の劇団員全員の時間を。それを、オールインするような価値はないじゃないか。
 善彦は、努力を重ねて体を作って研究所にも通って演技を磨き続けている役者だから、一番不満を持っているのは彼のはずなのに。

 くだらない。

 日曜の朝。
 練習場も区民会館の玄関に続く石の階段も、表を走る片道三車線の国道も、車道の左端を時速三十キロは出てるんじゃないかって速度で走るロードバイクも、それに乗ってるブルーのサイクリングウェアをまとったスキニーな女性バイカーも、全部、くだらない。
 嫌いだ。

「善彦、俺さ、芝居出るのやめようかって思ってるんだけど」
 俺は、中学生がずっと好きだった女子生徒にうっかり恋の告白をしてしまったときみたいに、手のひらに汗を滲ませながら言った。
「もう、無理だ。自分でも解らないんだ」
「そうか、フナイ、そりゃ仕方ないよな。津村にはやめるって言ったのかい? それともこれが最初の告白かい?」

 日曜だというのに。よく晴れて冬の日にしては暖かい。
 例えば、誰にも知られずに公園で樹齢数百年の欅の樹で頚を括るのに、うってつけの日だというのに。善彦が何かを言い続けているけれど、なんか耳鳴りがしてて、彼が何を言っているのか解らなくなっている。

「そうかフナイ。確かに大石さんに台本と演出を任せることに不満を持っている連中は、多いと思うよ。学生劇団じゃないんだから。いつまでも実力のないものに従う必要はないよね。学ぶべきところはあるんだろうけど、どうなのかなと思うこともあるさ」
 善彦は、区民会館の入り口の階段に腰掛けて、電子タバコを取り出した。
 フルーツ的な匂いが辺りに漂う。
「でもさ、俺たちの芝居って、そんなあれじゃないよ。そもそも」
 そもそも好きでやっている、とかか?
 いや、そういうことを言い出したら終わりだろ。
「そもそも、この街には、腐るほどの劇団があって、毎日毎日飽きもせずに芝居が打たれ続けているじゃないか。俺たちだって、そんな有象無象のひとつに過ぎないさ。くだらねえなって思ったり、ものの十分程度で出て行きたくなるようなクソ芝居と同じような。そんなものと同じなんだよ。世の中のほとんどはそうだ」
「お前は、そういう議論ばっかだよな。なんかカッコつけてるだけみたいな。何もかも解っているとでも言いたげな。ずいぶん簡単だよな。大石さんの影響なのかな。ペラいなペラッペラだよな。所詮は好きでやっているとか言い訳するだけの奴だよ、お前は。なあ善彦、そんなことじゃないんだよ」
 俺は、なぜか、大石さんよりも善彦に腹が立ってきた。
「これ以上、俺に酷いこと言わせないでく……」
 ガツン、という衝撃が右頬あたりに感じ、俺は、そのままふらついて倒れそうになった。
 善彦の拳が固く握りしめられていた。
「そんなの言われなくても解っているんだよ。今まで、時間と金を注ぎ込んできたことが、ぜんぶ無駄だったってことくらい、フナイ、お前に言われなくても解っているんだよ」
 みたいなことを、この友人は言っていたかもしれない。

 終わりだな。

 ここまでだよ、善彦。お前だって終わりだ。一旦、あの大石さんから抜け出さなきゃ、あんたの賭けは盛大に負けることになる。二歳馬戦で成績を残せなければ、それで終わりなんだよ。未勝利でいなくなる。誰にもなんの印象も残さずにいなくなるんだ。才能とかさ、努力とかさ、そういうものじゃないんだって。

 ほんと日曜日だというのに。こんなに晴れて、日本晴れで、あったかい。
 こんな完璧に日曜日には、女の子と公園でピクニックをするべきだったんだ。

 そういえば、昨日、共和国が打ち上げた人工衛星は、地球周回軌道に乗ったのだというニュースを今朝やっていた。人工衛星は「将軍様を讃える歌」を空気のない宇宙空間に向けて鳴らしているらしい。ソニーかJBLかBOSEか、どこか知らないけど優秀なスピーカーをコピーしたスピーカーなんだろうな。なんてことを、俺は思い出していた。

 劇団を出ていく。
 たかがそれだけのこと。

「じゃあ、俺は行くわ。やめるから。みんなにそう言っておいてな」と俺。
「まあ、とりあえず、髭は剃った方が良いと思うぞ」と痛む拳を振りながら善彦が言う「全然似合わねえから」
「ああ、俺もそう思ってたよ」

 俺は、動かない。

[2023.12.9 19:39-20:38]



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