人間は国を愛する必要性はない

国民が国を愛さなければ国民保護を国から受けられないなどという国があってよいわけがない。
現在、進行している国の政策は、その選別が進んでいる。
国から見たら「愛」とは、「国益」をもたらす国民が「愛国者」である。このことは、なんら奇妙な話ではない。なぜなら、日本は誰が見てもわかるように「資本主義国家」だからだ。
大企業が国から異常なまでに「保護」されるのは、「資本主義国家」の露骨なまでの表明に過ぎず、大企業こそが「愛国者」である。
多くの人々は、「資本主義国家」の原理を忘れ、観念として国を愛するだの主張するが、例えば、そのよい例として西部邁がいた。また、山本太郎も観念論者としての「愛国者」である。
それら、西部邁にせよ、山本太郎にせよ、彼らは、故郷としてのnationを愛するということを言いたいのだろうが、政治実務において「愛」など必要だろうか。
オバマ前大統領は「愛国者」だから、国をよくするというようなことを述べていたが、それは責任ある地位としては当然の義務であり、国民にまではその義務は及ばない。
例えば、大衆蜂起や革命は愛国から発生したのではない。フランス革命は愛国とは無縁の多くは貧困農民のパンを寄越せ、という要求にジロンドやジャコバンが応じたに過ぎない。そうしなければ革命政権は崩壊するからである。また、フランス革命は、貴族から財産没収をして国家所有にした。そのような革命政権ならば、私は支持するが、それでも愛など起きない。私は唯物論者だからだ。私はプラトンのような哲学を唾棄する。
つまり、国とその国に住む住民の関係は、フランス革命が起きた王政国家でも、資本主義的な利害が前提に存在していたのである。
国は共同体ではない。
契約関係に基づく機関でしかない。
もし、国を愛さなければいけない、とか、国を愛するが故にこそ悪政を糾す、だとか、悪政を倒す、というような言説が支配的になれば、外国人はどうなるのだろうか。
我々はユダヤ人の苦難の歴史を忘れてはいけない。古代エジプトに住んでいたユダヤ人は外国人であり、迫害されていたのだ。そのユダヤ人がエジプトを愛してなどいないだろう。
同じように、外国人へ非常なまでの迫害をする国・日本で、外国人が日本を愛することなどないだろうし、国を愛するが故に悪政を倒す、だとか、糾す、という言説は、ロマンとして理解できるが、リアルな生活現場では、空文である。
人間は、国に対して愛などはいらない。
必要な態度は、社会契約の維持が実現されているかを判断する知性だけであり、法的な感覚だけで良い。
法的感覚だけで国へ向き合えば、反グローバリストが主張するような言説、または、日本共産党が述べる愛国的な構えが、ロマン主義の域を超えるものではないことがわかるだろう。当然、山本太郎もロマン主義者でしかない。
私たちは、ロマン主義の魅力に取り憑かれて、踊らされてはいけない。
地に足をつけ、資本主義国家の本質を見極め、愛だのなんだの言っている場合ではない。
リアルに生きよ。

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