生きていてよいですか、だとか、何をバカげたことを言っているのか、甘えているのか
私は生きていてよいですか、だとか、何をバカげたことを言っているのか。
日本では、日本国憲法が生存権を保障している。
だから、誰かに生きててよいですか、と許可を求めることが間違いである。
生きることは権利である。
生存権はフランス革命、ロベスピエールが人の権利として加えた。
生存するとは、闘争して勝ち取られた権利である。その権利を維持しなくてはいけない。
つまり、闘争して勝ち取られた権利ということは、裏返して言えば、簡単に人は殺されていたのだ。そんな時代に、私は生きていてよいですか、と言おうものなら、生きる価値なし、と言われ、殺されてしまうだろう。生存権とはそんな社会に対する異議申し立てとして、闘争して勝ち取られた権利なのだ。だから、平気で人を殺していた側の貴族や王侯は、ギロチンで首を刎ねられたのだ
。歴史を知るということがいかに大事かわかるのではないか。当たり前のように見える生きることが、そう当たり前ではない時代が人類の歴史では存在していたのだ。そのことを知れば、生きていてよいですか、などという言葉は口を裂けても言えない。日本にせよ、切り捨て御免という武士の理不尽な殺人は日常的に存在し、藩が潰されるときは、切腹である。人の命は軽かったのだ。
生きててよいですか、という言葉は、日本社会では、なぜか、妙な精神疾患的な物知りや共感したかのような偽物が、生きててよい、とか、いかにも、「寄り添い」であるかのように語られる。そういう言葉が真実に見えてしまうのは、「歴史性」を無視した無知以外何者でもない。
今でも、自爆テロのようなテロは存在し、カネと引き換えに、自爆テロをさせられてしまう人々はいる。そんなことを知っていれば生きていて良いですか、と言えるのは、むしろ、恐ろしくて言えない。日本社会は、このような社会に対する無知が蔓延しているから、簡単に、死ぬ、だの、生きていてよいですか、など軽々しく言える。
生きることは、簡単なことではない。
コロナウイルスを例にしなくてもわかる。
生きる、それは、簡単なように見えていかに困難か。例えば、失業し、収入が途絶えたら、生存はそれこそ、簡単に脅かされる。
生きていてよいですか、というような言葉、または、自殺したい、だのいう者には、人類が原始時代から、いかに生きてきたかの困難な歴史を教えればよい。妙な共感をしてはいけない。心理学的な語りを許してはいけない。
むしろ、突き放して、人類がいかに生きることの苦闘を淡々と語ること、それを伝えればよい。
キリストは、磔にされているではないか。
ソクラテスは、処刑されているではないか。
そのような歴史を知れば、軽々しく、生きていて良いですか、とか、自殺したい、だとか、言えるはずがない。
あなたは、生きていて良い、と私は、訳知り風に言わない。生きることの困難さをむしろ、伝える。その困難を知れば、今、自分が生きていること、それがいかに、奇跡か、わかるだろう。
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