大嘗祭は国事行為ではないのに、なぜ、国費が支出されるのか、おかしな話だ

大嘗祭が国費で行われることは、日本国憲法に違反している。
大嘗祭は大日本帝国憲法の「第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」に従っている。
実際は、天皇が日本政治を現在、実務的には統治していないが、権威が保守勢力の「助言と承認」で統治手段として使われている。日本国民の内面には天皇が権威として支配され、統治されている。河村たかしは、愛知トリエンナーレの表現の不自由展で天皇をモチーフとした作品に対し日本人の心を傷つけるものだ、と言っていたが、いまや、天皇は、あらゆる日本人の心へ、統治している。ちなみに、河村たかしは当初は平和の少女像に難癖をつけていたが、日本人の心が天皇の権威な統治されていることを野蛮人の勘で見てとり、天皇をモチーフとした作品に対して難癖をつけた方が。日本人に対し、アピールが強くできることを知り、天皇をモチーフとした作品へ難癖をつけた。天皇は今や、政治上の権力者ではなく、日本人の内面へ統治していく「宗教支配」を強めている。その証拠に、天皇の大嘗祭へ明確に批判したのは、おわてんネットのような反天皇主義者のマイノリティだけであり、多くは、天皇の大嘗祭を容認し、ましてや、内閣の助言と承認に基づいているから、天皇が違憲ではなく、安倍政権に責任があるかのような論理を立て、その論理は天皇に内面が支配された日本人には心地よく聞こえるメロディである。だが、実際のところ、大嘗祭はアキヒトのときも、国費で行われていたから、安倍政権とは何ら関係なく、大嘗祭は国費で行われていることからして、大嘗祭がまるで、安倍政権の政治利用と見るのは、論理的に無理がある。
大嘗祭が国費でおこなわれるようになったのは、1989年12月21日閣議口頭了承で決定されている。
自民党政府は以下の内容を決めた。

(1) 大嘗祭が宗教上の儀式であることは否定できないから、国事行為として行うことは困難。

(2) しかし、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であるから、国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手立てを講ずることは当然。

(3) その意味において、大嘗祭には公的性格があり、大嘗祭の費用を宮廷費(国費)から支出することが相当。

自民党政府は以上の矛盾した論理を持ち出した。
(2)と(3)など、日本国憲法と何ら関係なく、自民党政府が、そう思う、というだけの主観ではないか。

安倍政権はこの1989年12月21日の閣議口頭了承に従っているだけである。

つまり、1989年から2019年のこの30年間、ますます保守化する野党は問題視してこなかったのである。だが、大嘗祭は国事行為ではない、と言い切っているのに、大嘗祭には公的性格があるから国費を出す、という考えは法治国家ではない。
国費を出す以上、その行為が日本国憲法に定められた天皇の規定に沿っていなければならない。
だが、自民党政府の主観、情緒、保守的な国民へのアピール、天皇の権威を利用することといった政治的判断で一方的に大嘗祭の国費支出は決められた。

天皇の地位は、日本国民の総意に基づく、という条文は、どこに行ってしまったのか。
自民党政府に踏みにじられているではないか。
自民党政府こそ、独裁政権である。

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