キリスト教徒が、イエス・キリストが処刑に使われた十字架をシンボルにしているのは私から見ると、マゾヒストにしかみえない

キリスト教徒は十字架をシンボルにしている。それは、私から見るとマゾにしか見えない。
新約聖書を読めば誰でもわかるが、ユダヤ・ファリサイ派が権威を保つため、拡大しつつあるイエス・キリスト一派を駆逐するためにローマ帝国・総督ビラトへ依頼してローマ法による処罰として、磔刑を求刑した。ユダヤ・ファリサイ派に扇動された群衆は、バラバ(強盗犯)を代わりに釈放しろ、と要求する。総督・ビラトは、この男が何をしたのだ、と訝しがるが、衆愚の圧力に負け、イエス・キリストを磔刑に処した。
イエス・キリストは、十字架に手と足を釘で刺され、エリ・エリ・サバクタニ、と漏らした。意味は神はお救いにならないのですか、である。
イエス・キリストは、ユダヤ教の改革者であり、政治的に抹殺された。ユダヤ・ファリサイ派をスターリンとすれば、イエス・キリストは、レオン・トロツキーである。
イエス・キリストは、粛清されたのに過ぎないのに、後付けで生き返り、天に行き、父の右に座った、と寓話をつけるあたりが、当時の抵抗としてのとるべき手段はそれしかなかったのである。父の右に座り、イエス・キリストが神になると、一神教ではなく、ニ神教になるではないか、と疑問すら抱かないのが、キリスト教徒というアバウトな連中である。
その粛清にされた手段に過ぎない十字架を使い、シンボルにし、カトリックは、父と子と聖霊の名によって、と十字を切るが、処刑された手段に過ぎない十字架へ父と子と聖霊とは、噴飯物である。

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