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停滞することに意味づけしない #スロー・フロー・ブログ

僕は生活の中で「急がない、焦らない」心がけています。
何かの締め切りが近いときほど、目指している場所に思うように近づかず停滞感を感じているときほど、白湯を飲んでまずはホッと一息つくようにしています。
急いでも、急がなくても、結局僕ら人間やるときは知恵や力や愛を出してちゃんとやるということがわかったんです。

それは言いかえると、誰かが正しいと言っていることや、家族、世間一般のこうすべきに巻き込まれすぎず、自分が心から大切にしたいことを大切にして、ゆっくりと生きること。
このブログの名前にもそんな空気感を含ませています。

あ、ちなみに「巻き込まれ“すぎず”」と表現したのは、どうしても僕たちは環境動物だから周りに巻き込まれるのは仕方ないと思うからです。
「ああ、また人の意見に合わせてしまった。自分はなんてダメなんだ」とその度に自らを傷つけてしまうのはあまりヘルシーとは言えませんよね。

停滞をゆるせない僕ら。

「ゆっくりすること」と「着実に進歩すること」は僕の中で矛盾しません。

やることを一つひとつやっていたら、必ずそれは終わります。
時間がかかることもあるけれど、後回しにしたことほど僕の場合は来たるべきときに何かスイッチが入る瞬間が必ずきて、結果的にスピーディに物事が完了したりします。

それでも、なかなか進まないなぁと感じることがある。
たとえば、これからしばらく九州を拠点に暮らしや活動をしていくのですが、2ヶ月かけて関東でつくった実績をどのように広げていくかの構想とアクションがなかなか見えない時間が今も続いています。

それはいわば、仕事のアテがないということを示します。
アルバイトをしたり、すでに九州でつながっている人のお手伝いをして日銭を稼ぐことはできるかもしれないけれど、それをして生きながらえるなら九州にいる意味はあまりなさそうです。

自分自身をより活かす形で、移り住む地域の人たちに貢献したいと思っています。その手段が写真と音楽でありたい。

現地に行けばきっとその道は開かれるのだろうけれど、まだそこを信頼しきれていないのでしょう。
早めになにか打てる手はないかと、ソワソワしている自分がいるのです。

昨日は本格的にコーチングを始めるという8年来の友人に話を聞いてもらいました。
多分、何の焦りもなかったら彼のコーチングを受けていなかったと思います。
なんとか、前に進んでいる実感がほしい。

そう、きっとほしいのはその実感。ただそれだけなのだと思います。

停滞することって、周りにおいていかれるようで、ずっこけて迷惑をかけてしまいそうでこわいです。
だから、停滞はいけないことだと思いこんでしまっているのだと思います。

停滞することに意味づけしない。

でも、この記事を書こうと思ったときに浮かんだこの言葉がすべてなのだと思います。

停滞することに意味づけしない。

焦ったり、不安になったときは、周りにある人工物じゃなくて、自然に目を向けてみます、葉っぱに触れてみます。

彼らは静止しているようで、勇ましく生きています。
決して焦ったりすることなくその命を全うできる分だけ生きて、枯れてゆく。

風で葉っぱがなびいていようが、日の当たる時間が長かったり短かったりして成長のスピードがまちまちであろうが、そのこと自体に意味はありません。

ただ、成るように成る。
成らないことは成らない。
それだけです。

だから、停滞にたくさん意味をつける必要はないと思います。
きっと、ゆっくり取り組んできたこれまでのすべてのことがそうだったように、今手がけていることもよい形で結ばれます。
さあ、お茶を飲んで、本を読もう🍵

…最後に私事ですが、今日はほんとうの自分に気づかせてくれた大切な人の誕生日なんです。
届かないと思うけど、おめでとう!
出逢ってくれて、ありがとう。

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noteを読んでくれてありがとう! 僕らしく、優しさのリレーをつなぐよ。