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思考の旅する文庫

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つれづれなるままに、文庫本を読んで思いついたあれこれ。 書物との接し方も人生の後半戦になると、知識を得るためではなく、己の人生に悔いを残さないために、と変化するのです。
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#コラム

『花森安治の編集室「暮しの手帖」ですごした日々_書を持って、家にいよう』

●文章にもある適材適所 雑誌にかかわらず、メディアに執筆する際にはそのメディアにあった文章というのが必要となります、当然ながら。 先日、尊敬する二十代の頃からお仕事をご一緒させていただいている方と、自動車評論に関してある話題があがりました。 それは、自動車のインプレで、「私にはとうてい買えるような値段ではないが」という内容から始まり、「仮に購入できる余裕があっても買わない」という感じで終わる文章です。 この手の文章って、インプレ原稿の中でまったく意味がないよねー、とい

『庭仕事の愉しみ_自然に老いてみよう』

ひさしぶりにカサブランカを買ってみました。咲いているのは2輪。先端の3つは、まだ蕾の状態です。 花瓶に入れてから2日後、上から3番目の蕾に亀裂が入り、まだ固い黄色い雄しべの姿がちらりとのぞくようになりました。その3番目の花が大きく開いた状態になると、一番下にある買ったときに満開状態だった花の真っ白な花弁に、花脈がほんのりと現れてきました。その花脈が明瞭になってくると、花弁自体も薄く茶色に染まってきて、3番目の花に勢いを吸い取られるようにして徐々に萎れていくのです。こうして2

『イメージを読む_美意識が求められる現在』

●ゴクツブシでごめんなさい 幼い頃、すでに文学部なんて潰しの利かない学部で、そんな所に進学するのは穀潰しである的な空気はありました。法学部、経済学部、商学部……なんてものが、生きていく(お金を稼ぐ)上で有利であると。 さらに、文学部のなかでもヒエラルキーがあって(少なくとも早稲田にはあった)、小説家目指してます! 的な「文芸専修」、映画目指してます! 的な「演劇専修」というのが人気で、あと、「社会専修」というのも狭いヒエラルキーのなかでは上位に位置していました(潰しが利き

『ホモ・ルーデンス_スポーツを純粋に楽しめてますか?』

2018年7月に、ブログ「ART LIFE mag.」にアップした内容の改訂版です。 部活動って、スポーツの技量を学ぶだけでなく、社会に出て役に立つ、いろいろなことを学ぶ場でもあります。 私の場合、小学校で入っていた野球部は確かにそうでした。 それは、個人のスキルが上達してもそれだけでは超えられない壁があるということを学んだのです。 たとえば、圧倒的なスキルをもっていれば──いわゆる天才なら──当然そんな壁はブレークスルーできますが、小学生の私にはそんな技術もなく、ま

『見るということ_SNSは写真が命!』

2018年6月に、ブログ「ART LIFE mag.」にアップした内容です。 大学を出て、最初に就職した映像制作会社は六本木にありました。 その後、初めて就職した出版社も六本木にありました。まだ、防衛庁があったころです。 学生の頃、遊ぶために訪れていた六本木に、働くために何年か通ったのは、ちょっといい思い出です。 六本木に通わなくなって、気がつくと六本木交差点にあった誠志堂書店がなくなっていました。これはちょっとショックな出来事でした。 しかし、いつも心のオアシスだっ

見せびらかすにはワケがある、と云うお話。

 ランボルギーニやフェラーリといった、富裕層向けのクルマを専門に扱う雑誌の編集長を務めていた頃、雑誌の巻頭にコラムを執筆していました。  あるとき、そのコラムに「スーパーカーを所有したくなる人の心理」というテーマで書いてみようと思ったことがあります。しかし、このテーマの論旨をノートに展開していく段階で、「これはまずいな」ということになりました。つまり、こういうわけです。スーパーカーを購入するような読者の方達が読んで、あまり気持ちのよい内容にならないのです。  人はよく、雑誌も

理解できない事って、やっぱり絶対にある、と云うお話。

 哲学的なことに目覚めたのは、小学1年生のときのお別れ遠足の帰路。そのときの記憶はまたの機会に譲るとして、それからいろいろ、思索するようになりました。小学高学年の時、「この世の中で絶対的なものって、なんだろ? そんなものって、あるの?」と考えはじめました。それは、愛? 宗教? それとも金?  数日間考えた挙げ句、逆説的にこんな仮説をひとつ立ててみました。 「絶対的なものは、この世に〈絶対〉にない」  この仮説を証明してみれば、何か答えに近づけるような気がしたのです。しかし、そ