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「毎日、自分の嫌いなことを二つ行う」のは魂のためには本当にいいことなのか?

魂を磨こう

 かつて、作家のサマーセット・モームはその著書「月と6ペンス」の中でこう述べたそうです。

 毎日、自分の嫌いなことを二つ行うのは魂のためにはいい

 好きなことだけでなく、嫌いなことにあえて取り組み続けることによって総合的な人間力が上がるよ、みたいな意味だと思います。確かに、人間は易きに流れやすい生き物だし、使わない能力はどんどん退化していくのが生物の常です。そういった意味では、このようなノルマを課すのはとても良いことだと思います。

 まあ、逆に、ストレスのない状況で好きなことにとことん向き合うことでこそ本当の成長ができる、みたいな考え方もできる訳で、このあたりはめぐり合わせによるものだと思います(無難な結論)。

 いずれにせよ、便利なフレーズなので、私も折に触れて引用してしまいます。こんな感じで。

本当にその言葉、真実ですか?

 年を取ると疑り深くなるもので、こういう「名言」は、内容以上に、本当にそいつそんなこと言ったんか? ということが気になるようになります。 余談ですが、ネットに出回っている偉人の名言の類はけっこう捏造が多いです。特に、インターネットの時代では、出典や根拠が曖昧なまま、なんとなくデマが成り立ってしまうことも多いです。ヤラセやフィクションは嘘でも構いませんが、歴史や伝記は嘘であっては困る。名言というのは、本来であれば後者であるべきだと思いますが、時としてその中間のような立ち位置になってしまう。キャッチーさと検証する手間のバランスが絶妙なためでしょうか。

 ちなみに、私が上記のツイートをした時には、一応ネットで検索してサマーセット・モームの引用であるということは確認しましたが、これは完璧な根拠にはなりません。ネットでそういうデマが流行しているという可能性を否定できないからです。ドヤ顔で引用した以上、後で捏造だとわかったら赤恥を書くのは必至です。検証しなければなりません。

バーテンダー

 そもそも、私がなぜこの名言の存在を知っていたかというと、その理由は「バーテンダー」という漫画(原作:城アラキ先生、スーパージャンプ掲載)です。

集英社公式アプリ(https://ynjn.jp/title/634)より引用

 ネット上でも、この漫画と冒頭の名言を結びつけて語る記事は多く見られます。まずはこれがデマではないことを示すために、現物の証拠を引用します。

「バーテンダー」第8巻 166 p

 という訳で、第8巻に確かにそのような記述がありました。なので、少なくとも「『バーテンダー』が、その作品中で『サマーセット・モームの作品の文章』として引用した」という事実は真です。

 しかし、これは孫引きというやつで、本当に「月と6ペンス」を読んで確かめた訳ではありません。まあ、知識をウリにした漫画で、出版社の編集を通す以上、まさかデタラメを書く訳はないと思いますが、この引用がウソであるという可能性もごくごくわずかに存在します。

 じゃあなんでそんな寄り道みたいなマネをしたのかというと、おそらく日本人でこの名言を引用する人は「バーテンダー」経由の人が多いと思われるので、「『バーテンダー』の引用」自体は真であると検証したかったからです。

 次は、実際に原典を読んでみます。

原典

 当然、該当箇所を見逃す訳にはいかないので、事前にリサーチを行いました。英語圏で以下のフォーラムがヒットしました。

 これによると、チャプター2にそのような記述があるらしいです。

 さて、これは真でしょうか? おそらく 99.9 %そうでしょう。しかし、根拠とするには原典を当たらなければいけない。いやしかし、こんな思いつきのために本を買うのは……と思っていたところ、該当部分は冒頭なので、Kindle のサンプルに含まれることに気づきました。これをキャプチャ……はさすがにできないので、内容の一部を、出典元を明記した上で転記させていただきます。

 さて、原文は以下になります。

I forgot who it was that recommended men for their soul's good to do each day two things they disliked: it was a wise man, and it is a precept that I have followed scrupulously; for every day I have got up and I have gone to bed.

The Moon and Sixpence, W. Somerset Maugham

 これも、同様に訳書の Kindle では該当部分が見られるので、以下に転記させていただきます。

昔、ある人に言われたことがある。魂の成長のためには、毎日、いやなことを二つ実行しなさい……。誰に言われたかは忘れたが、きっと尊敬できる人だったのだと思う。だから、私はその教えを几帳面に守り続け、朝には必ず起床し、夜には必ず就寝してきた。

月と六ペンス(光文社古典新訳文庫)、土屋政雄 訳

だれだったか、人間は魂の安らぎを求めるために、毎日自分の好まないことを二つほどするがいい、といった人がいる。なにしろ賢人の言葉なので、私も日ごろからこの教えを、きちんと守りつづけている。私が毎日、しぶしぶ起床し、かつ就寝しているのがそれだ。

月と六ペンス(グーテンベルク21)、龍口直太朗 訳

 という訳で、冒頭の名言に相当する文は、確かに「月と6ペンス」に書かれていることがわかりました。しかし、そのニュアンスを紐解くと、ちょっと話が変わってきます。

そもそもそんな重要な箇所ではない

 興味がある方は実際に Kindle で冒頭を読んでみればいいと思いますが、この「名言」は、ほとんど、というか全くストーリーに関係ないのです。次の文章につなげるための挨拶のようなものです。

 そもそも、「起床する」「就寝する」を「嫌なこと」の代表例と出している時点で、主人公がこの「名言」(毎日、自分の嫌いなことを二つ行うのは魂のためにはいい)を、少なくとも道徳的に望ましい方向ではまともに取り合っていないことは明白です。諧謔の一種と考えるのが自然です。

 なので、「『月と6ペンス』にこのような記述があった」というのは正しいですが、この部分を引用するにしても、可能な限り前後の文脈、少なくとも「その習慣を守り、毎日起床して就寝している」というところを含めないと、明らかにミスリーディングです。あまつさえ、「だからモームはこう言っている」とか「この作品やモームは、そのような魂を鍛えることを推奨している」とか言うのは、明らかに無理があります。

 という訳で、冒頭にリンクを貼った私のツイートにもそのような語弊がありました。謹んで訂正させていただきます。


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