虚金 

環状線を走りながら、経済の循環について考える。降りようとさえしなければ永遠とループする。環状線は、ビルとビルの間を貫くように設計されていて、まるで「街の動脈」のようだ。アクセルを踏み込み過ぎないように走っていると、次々と車が行く手を遮るようにして合流する。皆が慌てている。目的地にか、生きることになのか。世話しなく車線変更するアルファードと車間距離を保つ。金は天下の回りもの、というが、本当に手にしたいのなら貧困のループから降りて、強奪しなければならないと考える人もいる。喧嘩神輿のような激しい合流が続く環状線の中で、最も速度が速い車はレクサスRXだった。

お金というものは生き物ではない。ただの紙である。こんな薄紙1枚では、雨風も凌ぐこともできず、暖炉を温めることもできない。初めて消費者事件に魅入られるようになったのは、同級生の女の子がアムウェイの勧誘を始めたことがきっかけであった。知人・友人の縁を現金に換金するために、血眼になって電話をし、FACBOOKに投稿し、メッセンジャーに送信する。着物を着てパーティーに行き、寿司や肉の写真を挙げる。自分の想像する範囲に収まる程度富裕層を演じるために、身の回りの人を「売る」ことの先に、一体何が待っているのだろうか。シャンパンの泡がはじける時、彼女は何に満たされるのだろう。

環状線から降りる時、永野一男は自身の腹部に刺さった制式銃剣に何を見たのかと考える。死をもって人生のループを降りた希代の詐欺師。最期には手元に「見せ金」さえ残せなかった男が去った後も、私たちは貧困のループから抜け出すために、虚しい金が舞う別のループへと足を踏み入れる。Instagramには子どもとの旅行、買ったブランドのバッグに食べたステーキの写真を挙げる。

夢の無い州に向かって走る自身の中古車の助手席には、永野に奪われた人々の記録が乗っている。本当に虚しい金を掴もうとしたのは、永野一男だけだったのだろうか。永野というピエロを傘にして、蠢いた者たちが居たのではないか。

私たちは聖人ではない以上、永野という男を通して、己の小さく、片付けようのない欲望と向き合うべきだ。身体の奥深く、ぬるい水が溢れるようにして蠢いている自分の浅はかな欲望とともに、湾に沿って車を走らせる。煌めきの無い湾から出るフェリーは、海面に不規則な波状を生み出す。その様子は心電図のようで、海こそは生き物のようであった。





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