なぜ「普通の人たち」が豊田商事で働いたのか

全国で雇用された従業員たち


豊田商事は「金のペーパー商法」によって拡大した企業である。永野一男はまず、個人で「豊田商事」という称号で金地銀(※)の商品取引をする企業を立ち上げた。1978年7月8日に会社組織化させており本店は東京都中央区銀座としていたが、実際の活動は愛知県名古屋市を中心に大阪や岐阜、三重県などを中心に展開している。破産管財人による第1回調査報告書によると、資本金は5,000万円とあるが見せ金であったとされる。最初から最後まで、薄い倫理観念の上に作られた砂の城であった。なお、豊田商事は永野自身が代表取締役を徹頭徹尾務めていたわけではなく、銀河計画(※)の専務取締役なども就任している。豊田商事が破産に至るまでの変遷は後述する。

豊田商事はほぼ全国に支店、営業所を構えていた。東京、大阪、愛知などのエリアは拠点数も多く、それだけ現地に従業員を配置していたことになる。豊田商事は銀河計画を通じて巨大なグループ企業を作り、海外にも支店があった。最盛期の従業員数は約7,500人、グループ全体では約1万数千名に上り、捻出していた給与は最大で月に15億円にも上った。多くの人が詐欺企業に加担し、そこから給与を得ていたのだ。

実際に従業員募集のチラシを見てみると、三重営業所への募集のチラシには以下の文章が書かれている。

「”営業”なんて出来ない、と思い込みしていませんか。思いきってアタックしてみませんか。短期間で意外な高収入の道・ハイライフプランが開けます。むつかしく考えてないで、さあー。」

ここから先は

8,313字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?